北朝鮮が金正恩朝鮮労働党委員長の健在ぶりをアピールした。朝鮮中央通信が2日、肥料工場を視察したと報じ、映像も公開された。4月下旬に健康不安説が流れ、各国が動向を追っているさなか。日本など関係国は「健康面の懸念は依然としてある」(外務省幹部)との認識で一致、情報の収集と分析を進めている。

 注視しているのは、正恩氏の妹で党第1副部長の金与正氏に、権限の一部を共有させるといった形での「体制の変化」が起きているかどうか。実はこの1、2年の間、安倍政権は与正氏へのアプローチを模索していた。日朝関係の膠着(こうちゃく)状態を打開し、拉致問題進展の道筋を探る狙いだが、取り組みが結実する可能性はあるだろうか。(共同通信=内田恭司)

 ▽政変直結の状況にない

 「金正恩氏の健康状態には大きな関心を持って注目している。米国と相当緊密な情報交換をしている。必要な情報の収集、分析に全力を挙げていく」。安倍晋三首相は4月28日の衆院予算委員会で答弁した。ただ金氏の健康状態を把握しているかどうかについては「答えを差し控える」と言及を避けた。 

 この間の対応について、外務省幹部は「報道で流れていることを含め、あらゆる情報を収集し、分析してきた」と語る。

 発端は米CNNが同月21日に伝えた「米政府当局者の話として金正恩委員長が手術を受けて重体になっているとの情報がある」との報道。それ以降「地方視察中に倒れ、緊急の心臓手術を試みたものの失敗」「年明けにフランスから医療団が訪朝していた」「既に植物状態になっている」等の真偽不明の情報が流れた。

 同時に「東海岸の元山の別荘に滞在中」「専用列車が横付けされている」などと、重体説を一蹴する報道も出た。

 日本政府は、こうした情報と同時に、米国や韓国と連携して、偵察衛星や通信・電波の傍受や、北朝鮮内部の協力者などからもたらされる高度情報を互いに集約して分析。日本政府関係者によると、関係国間では①軍に目立った動きがない②指導部内に緊迫した様子が見られない③通信量に際立った増加がない―ことで「直ちに政変に直結する状況ではない」と判断したという。 

 ただ、金正恩委員長が、祖父の故・金日成主席の生誕を記念する4月15日の「太陽節」に姿を現さず、中国から大規模な医療団が訪朝したことから、日米韓当局は「金委員長の健康不安説は払拭(ふっしょく)できていない」との見解を維持。いまや実質ナンバー2と目されるようになった与正氏の地位と権威が今後、一層高まっていくとの見方で一致したという。 

  ▽「五輪外交」

 前述したように、安倍政権は、金正恩委員長が対外強硬路線から大胆な融和路線に転換した2018年1月以降、拉致問題の解決につなげるため、与正氏との接触を模索していた。与正氏は金日成主席の血を引く「白頭の血統」であり、実妹として正恩氏の信頼が厚いためだ。安倍首相としては、正恩氏との首脳会談実現に一役買ってもらいたいという思惑もあった。

 チャンスは同年2月の韓国における平昌冬季五輪の開会式で訪れた。文在寅大統領との関係は悪化していたが、安倍首相は招待に応じた。与正氏が正恩氏の「名代」として、開会式に合わせて訪韓することが分かったからだ。

 日本政府関係者によると、安倍首相は開会式会場に先に到着し、与正氏を待ち構えたという。だが、与正氏は遅れて来場。貴賓室では同席したものの、握手すら交わすことなく終わった。

 高官レベルでのアプローチも試みた。安倍首相の側近である北村滋内閣情報官(現国家安全保障局長)が、18年6月のシンガポールでの米朝首脳会談後の翌7月、与正氏に近いとされる、女性幹部で党統一戦線部室長の金聖恵氏とベトナムで極秘に接触した。

 北村氏は「条件を付けずに首脳会談を行いたい」という安倍首相の意向を伝達。拉致問題を巡り「突っ込んだ意見交換をした」(日朝関係筋)。だが、同年10月にモンゴルで再接触しようとしたが「相手は現れず、不発に終わった」(同)という。

 その後も与正氏をキーパーソンと見定め、接触への模索が続いた。日本政府関係者によると、官邸は、今年7月に開幕予定だった東京五輪開会式出席のため与正氏が訪日する可能性はゼロではないとみて、情報収集を進めていたと明かす。

 もともとは金正恩委員長を開会式に招き、安倍首相との首脳会談を実現させるというシナリオがあった。だが、北朝鮮が日本への強硬姿勢を強め、米朝関係の悪化も顕著になってきたことから、昨年末までに正恩氏の訪日は「ほぼありえない」と断念。ただ、日米両国だけでなく中国、ロシアを含めた関係国の北朝鮮問題専門家は、五輪開幕1カ月前の今年6月ごろまでには、北朝鮮は再び融和姿勢に転じると分析していた。

 平昌五輪の際、金正恩委員長が対話路線にかじを切ったのは開幕のほぼ1カ月前で、開会式に参列したのは与正氏。与正氏による東京五輪開会式に出席がありうるとの見方は、こうした背景から出てきたものだった。

 ▽求められる構想力

 それでは、来年7月に予定される東京五輪開会式に向け、日朝関係が動く可能性はあるのだろうか。北朝鮮情勢と「コロナとの闘い」の動向次第であるのはもちろんだが、与正氏の地位は今年に入って「異例の速度」(日朝関係筋)で高まっており、日朝関係の行方を見定める面からも、与正氏の一挙手一投足から目が離せなくなっている。

 関係筋によると、日本政府が注目しているのは、与正氏が今年3月に自身の名で韓国と米国に対する談話を相次いで発表したことだという。正恩氏から今後、正式に後継指名されるかは不明だが、対外関係で「一定の権限の共有、もしくは移譲がなされた可能性がある」(同)とみているのだ。

 韓国向けの談話は、青瓦台(大統領官邸)を激しくののしりながらも、文在寅大統領の直接批判は避けた。米国宛てでは、金正恩委員長とトランプ大統領との個人的信頼関係を確認している。関係筋は「正恩氏が与正氏に、首脳間の関係を重視しているとアピールさせている。今後、与正氏が正恩氏の名代として各国首脳と会う布石だ」と読む。

 核・ミサイル開発の継続で、米朝関係は厳しい局面が続いているが、11月の米大統領選でトランプ氏が再選を果たせば、体制内での権威と権限を固めた与正氏が前に出る形で、米朝関係の仕切り直しに動く可能性があると見ているわけだ。日朝関係を動かすとすれば、このタイミングを捕まえることが重要になってくるだろう。 

 振り返れば、18年6月の歴史的なシンガポールでの米朝首脳会談から2年近くたつが、核問題は解決せず、北朝鮮の核・ミサイル開発は確実に進んだ。もはや北朝鮮の核放棄は非現実的で、米国としては、事実上の核保有国と認め、核兵器を「増やさせない、高度化させない、拡散させない」ことに対北朝鮮政策の軸足が移っているように思える。

 日本にとって最も重要になるのは、北朝鮮の核ミサイルに対する抑止力をどう確保するかだ。米国は日本を含む東アジア地域に新型の中距離弾道ミサイルの配備を検討しているとされており、日本への抑止力提供の議論と、配備計画が連動してくる可能性は否定できない。北朝鮮が強く反発するのは必至だが、けん制にはなりうる。

 東アジアの安全保障環境の大きな変化も背景に、金正恩委員長と与正氏の動向を見据えながら、来夏の東京五輪に向けて拉致問題進展の糸口を見いだすことができるのか。相当の戦略眼と構想力がなければ、再び北朝鮮を交渉のテーブルに着かせることはできないが、安倍首相の任期はあと1年4カ月あまり。残された時間は少ない。