山川菊栄と生年も没年も同じ女性社会主義者がいる。1890年10月18日、山川より16日早く生まれ、1980年7月15日、山川より3カ月半早く逝った。岡山市出身の九津見房子である。

 ■男よりもひどい暴行を受けた

 山川が文筆で女性運動をリードしたのに対し、行動するフェミニストだった。闘いの途上で非業の死を遂げた伊藤野枝や金子文子のように、映画や小説で取り上げられることもなく、忘れられた活動家だったが、この夏、同郷の詩人斎藤恵子が評伝『九津見房子、声だけを残し』を出版した。

 タイトルの「声だけを…」というのは、『九津見房子の暦 明治社会主義からゾルゲ事件へ』(牧瀬菊枝編、75年刊)に長い活動歴を語っている以外、本人が書いたものがないからで、他の資料もあわせ丹念に読み込んでいる。これも踏まえて、九津見の軌跡と山川のそれを重ね合わせ、日本の女性解放運動の来し方と未来を考えたい。

 九津見が社会主義運動に飛び込んだのは、山川菊栄よりはるかに早い。女学校4年、16才のとき、通学途上の寺で社会主義講演会の貼紙を見て会場に行き、山川均に出会う。均は不敬罪による3年の刑期を終えて倉敷の実家に戻り、薬問屋の番頭をしながら活動していた。

 「今こそわれわれは力を中央に集中して働かなければならない」とあおられて家出。均とともに上京し、やはり岡山出身の女性解放運動家、福田英子の家に落ち着き、福田が発行する『世界婦人』の手伝いをする。しかし、父親が亡くなったため4カ月後に帰郷した。

 23歳でキリスト者の高田集蔵と結婚し、2子をもうけたが離婚。21年4月、堺(のち近藤)真柄(まがら)らと女性社会主義者グループの赤瀾会(せきらんかい、「瀾」は波の意)を結成する。この赤瀾会で九津見と山川菊栄は交差し、しかし、その後の闘いの歩みは対照的といえるほど、別れていく。

 赤瀾会は前年結成された日本社会主義同盟の婦人部のような存在だった。結成後すぐの5月1日、日本で初のメーデーの街頭デモに参加して全員が検束された。山川は『おんな二代の記』に次のように書いている。

 ―ほんの少しばかりの婦人たちが何倍もの警官にとりかこまれ、打つ、蹴る、ひきずりまわすという暴行をうけ、中には二年間入院をよぎなくされたほどの被害者を出そうとは夢にも思わなかったことでした。警官は単にメーデーそのものが憎かったばかりでなく、『女のくせに』という性別的な偏見のため、男子に対する以上の暴行にかりたてられたようです―

 ■革命のロマンには酔わない

 この赤瀾会の中心を山川菊栄や伊藤野枝とする本があるが、2人とも顧問格で実際の運動には参加していない。山川本人は、メーデーでまいたビラ「婦人に檄(げき)す」を執筆し、婦人問題講演会で話しただけと語っている。

 その檄文も言葉は強いが、今から見ると突出した内容とは思えない。女は家庭では奴隷のような立場にあり、働いても賃金が安く、売春をさせられたりしていると指摘する一方で、男たちを戦争に駆り立てる体制を批判している。

 しかし、当局の社会主義者への弾圧は激しく、赤瀾会も労働争議の応援に行っては検束され、講演会を開けば、臨検の警察官に「弁士中止!」と解散させられ、それを新聞が騒々しく書き立てて八方ふさがりになり、半年で解散してしまう。

 目立つ動きをして警察に捕まり、新聞沙汰になる赤瀾会メンバーに対して、山川は距離をおいた。というのも、以前、社会主義に興味を持った女子学生たちが、山川と労働問題の研究会をしていたのを新聞が記事にしたことから、女子学生たちが退学させられるという事件があったからだ。

 山川は彼女たちの才を惜しみ、以後、出入りする女子学生たちに細心の注意を払うよう促した。専門教育を受ける女子が稀な時代、卒業して手に職をつけることを優先させた。革命のロマンに酔って、犠牲もやむなしとする体当たり的な運動には批判的だった。

 21年の赤瀾会解散後、山川は東京女子医専(現東京女子医大)の学生らと八日会(3月8日の国際女性デーにちなんだ命名)を結成し、1923年、日本で初めての国際女性デーの集会を実現させたが、彼女たちは全員卒業し医師になっている。

 ■信じる道を愚かにへたに歩く

 一方の九津見は赤瀾会の後、労働運動家の三田村四郎と結ばれ、労働組合のオルガナイザー(組織者)として各地の争議に出かけ、産児調節運動にも携わった。次いで非合法共産党に入党して北海道でオルグ中の28年、検挙されて女性の治安維持法違反第1号となり5年間服役した。

 夫の三田村は共産党の幹部として逮捕され、獄中転向していたが、九津見は出獄後、その夫を獄外から支えた。さらに日本を舞台とした大規模なスパイ事件として知られる「ゾルゲ事件」の諜報活動に参加したとして41年に逮捕される。懲役8年が確定して服役中に敗戦を迎え、釈放された。

 九津見は女性の政治犯として最も長い獄中生活を送った。ゾルゲ事件に連座した理由を「唯一の社会主義国ソ連を守りたかったから」と語っている。16歳で出会った社会主義のために命を懸けた。

 戦後、社会主義を唱えることが弾圧の対象ではなくなり、山川は労働省の初代婦人少年局長となる。全国の婦人少年局職員室の主任に全員女性を任命するなど、年来の主張を実現していく。

 しかし九津見は、同じく刑務所から解放された夫がしだいに反共・労使協調の労働運動家になっていくのに黙って従った。知人らはその姿を「屈辱的」と見たが、言い訳もしなかった。非合法生活が長かったことからメモ1枚残さないスタイルを貫いた。

 斎藤恵子は先の評伝『九津見房子、声だけを残し』で「覚悟をもって信じる道を愚かにへたに歩くしかなかった九津見房子」と評している。

 ■人類の黄金時代は過去でなく未来に

 わたしは、赤瀾会の女たちの列伝を書くために1972年から、当時健在だった会員たちに取材して歩いた。

 中心的活動家だった近藤真柄(まがら)は著名な社会主義者、堺利彦の娘。戦後は市川房枝の婦人有権者同盟に身を寄せた。当時の弾圧の厳しさを「とても今の方にはわかってもらえないでしょうが…」というのが口癖だった。それでも関係者を次つぎと紹介してくれた。

 九津見は正座の膝を崩さず、わたしの質問に答えた。だが、なぜ転向した三田村を支えたのかといった機微にわたる問いには頑として沈黙した。検挙されたいつのときも「知らぬ存ぜぬ」で通した人らしく歯が立たなかった。宗教者のような犯しがたい雰囲気があった。

 神奈川県藤沢市の山川家にもおじゃました。理詰めの女性論を十分に消化できないまま、おそるおそるドアをたたいたわたしを、山川は気さくな笑顔で迎えてくれた。

 「あの頃はのんきな時代でございましてねえ」と、『おんな二代の記』の作者らしく、胸のつぶれるような話をひょうひょうとした口ぶりで語ってくれる。この楽天性と未来を信じる力が、困難な時代を生き抜く支えだったのだろう。『女二代の記』の最後に書いている。

 「人類の黄金時代は、過去にはなく、未来にしかありえない」と。(女性史研究者・江刺昭子)

 【編集部注】文中に登場する女性初のメーデー参加団体「赤瀾会」については『覚めよ女たち 赤瀾会の人びと』(江刺昭子著)に詳しい。

闇を開く反発のバネ 『おんな二代の記』に学ぶ 生誕130周年の山川菊栄(1) 

https://www.47news.jp/47reporters/5507327.html

魂を形成する権利を男に委ねるな 疑うことは私たちの自由 生誕130周年の山川菊栄(2)

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