阪神入りは必然だったのかもしれない。10月26日のプロ野球ドラフト会議で、最多4球団競合の末に阪神が交渉権を獲得し、入団に合意した近大の佐藤輝明内野手。アマチュア球界ナンバーワン野手に育て上げた柔道家の父、博信さんは阪神ファンだ。父親譲りの体格とともに、勝負師の心得も受け継いだスラッガーは、運命に導かれるように地元球団に引き当てられた。大きな期待を背にプロ入りする逸材の軌跡をたどった。(共同通信=白石彩乃)

 兵庫県西宮市出身の佐藤は187センチ、94キロで、規格外のパワーとフルスイングが魅力の左の強打者。関西学生野球リーグでは現行リーグでの通算本塁打記録を22年ぶりに更新する14本塁打を放った。

 博信さんは、1992年バルセロナ五輪柔道男子71キロ級金メダリストの古賀稔彦さんらとともに日体大で活躍し、91年の講道館杯全日本体重別選手権86キロ級で優勝した経験を持つ元アスリートだ。53歳になった現在も183センチ、92キロと息子にひけをとらない。

 ただ、博信さんは「一度も柔道をやれと言ったことはない」と言い、幼少期から自主性を重んじた。佐藤は小学1年のときに、少年野球の指導をしていた祖父の影響で野球を始めている。3月生まれで、同学年のチームメートと比べて体は大きくなかったものの、飛ばす力はずぬけていた。「飛距離は天性のものと言いますよね。(地元の)西宮では少し有名でした」と博信さん。小学生の頃は「今思うと恥ずかしいくらい」の厳しい言葉で指導していたが、成長とともに静かに見守るようになった。

 佐藤が高校時代に始め「転機になった」と言うウエートトレーニングもサポートし、自宅の部屋にベンチプレスの器具などをそろえた。高校入学時に177センチ、65キロだった体はぐんぐん大きくなって飛距離も格段に伸びた。精神面では「勝負事は相手があって、相手はコントロールできない。しっかり自分のできることに集中して一生懸命取り組め」と勝負師らしい助言も。佐藤はこの言葉を胸に刻んでいる。

 関西学生の試合も頻繁に観戦。歴史を塗り替えた一打も家族全員で見届け、記念球を手渡された。ドラフト会議後に、父への思いを問われた佐藤は「支えてくれてすごく感謝している。父もスタート地点というのは分かっていると思うので、また支えてくれると思う」と素直に口にした。

 そしてもう一人、近大・田中秀昌監督との出会いが佐藤の未来を切り開いたといえるだろう。「家から近かったから」という理由で通った兵庫・仁川学院高では甲子園大会の出場経験がなく、在学時の最高成績は2年夏の兵庫大会4回戦。高3夏の同大会は初戦で敗退した。佐藤自身は通算20本塁打と大器の片りんを見せていたが、チームとしての実績がなく、大学のスポーツ推薦のセレクションすら受けられないこともあった。選考を受けても落選し、進路はなかなか決まらなかった。

 そんな状況で迎えた高3の6月。監督の知人の紹介で、関西学生リーグで47度の優勝を誇る近大の練習に参加できることになった。そこで大阪・上宮高の指導者として、巨人で活躍した元木大介=現巨人1軍ヘッドコーチ=や米大リーグでも実績を残した元広島の黒田博樹らを育てた田中監督の目にとまった。

 高校では捕手だった佐藤の強肩、さらにパワフルな打撃を一振り見た瞬間に「すごいスイング」とほれ込み、無名の存在だった佐藤の入部を即決した。その後、社会人チームとの試合で本塁打を放ったのを見て、1年春のリーグ戦から中軸で使うことを決断。最初は「(どんな球でも振る)扇風機みたいだった」と苦笑いで振り返るが「日本を代表する打者に育てなければ」という、使命感のような気持ちも湧き、起用し続けた。

 佐藤もその思いに応え、リーグ戦では2年春から3季連続でベストナインに選ばれ、2年秋、大学最後のシーズンとなった4年秋には最優秀選手に輝いた。2年時には大学日本代表にも選出されるなど、プロからの注目を集める打者に成長した。

 生活面も熱心に指導。マイペースな性格で、時間にルーズなところのある佐藤に「当たり前のことをしっかりやることが大事」と説き、時には怒鳴ることもいとわず、親身に接した。ドラフト会議当日は交渉権が決まるとすぐに、隣に座った佐藤とがっちり握手を交わし「4年前を振り返って、1位指名で重複するとは思わなかった。4年間、本当に本人が努力した結果」と賛辞を贈った。

 阪神の本拠地の甲子園球場は、右翼から左翼に強い浜風が吹き、左打者が引っ張った打球を押し戻す。それでも佐藤は「浜風に負けないように強い打球を打ちたい。本塁打40本、50本、当たり前に打てるような選手になりたい」と決意を示し「本塁打王ももちろん取りたいし、トリプルスリー(打率3割、30本塁打、30盗塁)も取ってみたい」と力強い言葉を並べた。2人の師の下で成長を遂げた佐藤。プロでの活躍が、何よりの恩返しとなる。