中国の湖北省・武漢で発生した新型コロナウイルス感染は、日々拡大を続け、現在のところ終息のめどは全く立っていない。米中貿易協議の部分合意の成立によって、下方リスクが緩和されたかに見えた世界経済に、新たな懸念が浮上した形だ。世界経済、そして日本経済にどのような影響をもたらすのだろうか。これを考える上で、2003年に流行したSARS(重症急性呼吸器症候群)の経験が参考になるだろう。(野村総合研究所エグゼクティブ・エコノミスト=木内登英)

 ▽影響、SARSの時の4倍

 中国では既に一部地域で、工場の操業停止、物流の遮断などが見られる。さらに小売店舗の営業停止などは、より幅広い範囲に広がっている。当面の中国経済に悪影響を与えることはほぼ確実である。

 SARSの際に初期対応が遅れたと世界から批判を浴びた中国政府は、その後の2003年前半に、SARS封じ込めにかなりの強硬策を講じた。そのため、中国は事実上封鎖に近い状態になったのである。北京は1989年の天安門事件以来、最も強い厳戒態勢が敷かれ、映画館やディスコなどの娯楽施設は全て閉鎖された。北京市内の五つ星ホテルは空室率が80%にまで上昇したという。

 その結果、SARSの拡大が本格化した2003年4―6月期の中国の実質国内総生産(GDP)成長率は、前年同期比プラス9%程度と、前期1―3月期の同プラス11%程度から一時的に2ポイント程度低下した。同様なことが今回の新型肺炎で生じる場合、世界経済への影響は当時と比べて格段に大きいはずだ。これは、中国経済の規模が大幅に高まったからに他ならない。

 IMF(国際通貨基金)の統計によると、中国の名目GDPが、世界のGDPに占める比率は、2002年の4・3%から2019年には16・3%へと4倍近く高まった。仮にSARS発生時と同程度に中国の成長率が低下した場合、世界の成長率の押し下げ効果も4倍近くとなるのである。

 中国のGDPがSARSの時と同様にこの1―3月期に2%低下する場合、世界のGDPは直接的に0・33%押し下げられる計算となる。他にも中国経済悪化の影響が他国に波及する効果も考慮しなければならない。SARSの時と比べて、中国企業が生産などの国際分業体制「グローバル・バリューチェーン」に一層組み込まれている可能性があるからだ。その場合、中国での生産停止の影響はより大きく、他国の生産活動にも及ぶはずだ。

 こうした点を含め、中国のGDPが2%低下する場合、世界のGDPは0・4%〜0・5%押し下げられると推測される。これは、昨年までの米中の追加制裁関税を巡る応酬が世界経済にもたらす悪影響に匹敵する規模だ。ちなみに中国のGDPが2%低下した場合、日本のGDPは1年目で0・10%押し下げられる計算となる。

 ただこれらは、中国のGDPが1―3月期に2%低下したまま1年間戻らない場合の、2020年の世界および日本の年間成長率に与える影響の試算である。SARSの時のように経済の落ち込みが1四半期で終わる場合には、年間成長率への影響はそれぞれ4分の1程度だ。

 ▽訪日観光客減で、GDP7760億円押し下げも

 今回の新型肺炎が日本経済に与える影響を考える際、最も大きな要素となるのは、訪日観光客数の減少によるインバウンド需要の悪化である。中国政府は、日本を含む団体海外旅行を、1月27日から取りやめた。中国からの日本向け旅行では、団体旅行が全体の4割程度を占めるという。

 SARS発生時にも、中国およびその他地域からの訪日観光客は大幅に減少した。しかし、今回、仮に同程度の割合で訪日観光客数が減少するとしても、日本経済に与える打撃は格段に大きくなることは間違いない。2002年と2019年の間に、中国からの訪日観光客数は21・2倍、訪日観光客数全体では6・1倍にも増加しているためだ。

 そこで以下では、SARS発生時と同程度の割合で訪日観光客数が減少した場合、2020年の日本のGDPをどの程度減少させるかについて試算した。

 SARSの発生が最初に確認されたのは2002年11月であったが、世界的に注目を集めるきっかけとなったのは、2003年2月に中国に渡航したアメリカ人ビジネスマンが、シンガポールへの飛行中に肺炎の症状を示したことだった。訪日観光客の増加率も、その2月に大きく低下したのである。

 そこで、2003年1月時点における訪日観光客数の前年同月比増加率と、2003年の年間を通した訪日観光客数の前年同月比増加率との差を、SARSの影響による減少分と見なしてみよう。その影響は、中国からの訪日観光客数でマイナス13・0%、訪日観光客数全体ではマイナス15・4%となる。

 新型肺炎の影響により、2020年の年間の訪日観光客数がこれと同じ割合で減少した場合、中国からの訪日観光客数の減少は日本の2020年GDPを2650億円押し下げ、訪日観光客数全体では7760億円押し下げる計算となる。ちなみに後者については、GDPを0・14%押し下げる計算だ。現時点では、これがかなり現実的な想定だと思われる。

 中国経済が1―3月期に2%低下し、4―6月期には持ち直す場合の日本経済への影響をこれに加えると、日本の2020年GDPは0・2%程度押し下げられる計算となる。

 ▽日韓対立と合わせ「二重」の大打撃に懸念

 SARSの場合には、訪日観光客数に深刻な影響を与えたのは数カ月程度と、比較的短期間にとどまった。上記の試算は、これが前提となっている。今回も同じ経路を辿った場合、夏の東京五輪・パラリンピック開催にも大きな支障は生じないだろう。しかし事態の終息までに長い時間を要する場合、日本経済への影響はどうなるだろうか。

 2003年5月単月の数字を見ると、中国からの訪日観光客数は前年同月比マイナス69・9%、訪日観光客数全体では同マイナス34・2%とかなり深刻な影響が生じた。現在、中国人観光客の4割程度は団体旅行で訪日していることから、海外団体旅行の禁止措置を受けて、訪日中国人観光客数は近いうちに少なくとも4割程度は減少することになるだろう。

 さらに、個人旅行で訪日する中国人観光客の中でも、旅行を控える動きがあり、あるいは都市によっては飛行機での移動が制限されている人もいることから、訪日中国人観光客数が全体でSARS 発生時と同様に前年比で7割減まで落ち込む可能性も十分にあり得る。

 2003年5月と同程度に訪日観光客数が減少し、その状態が1年間続くと仮定して同様に計算してみると、新型肺炎の影響で2020年の日本のGDPは2兆4750億円、実に0・45%も押し下げられる計算となるのである。

 中国経済が1―3月期に2%低下し、1年間持ち直さない場合の日本経済への影響をこれに加えると、日本の2020年GDPは0・6%程度押し下げられる計算だ。このケースでは、日本経済は深刻な後退局面に陥る可能性が高い。ただし、現状ではこの想定は悲観的過ぎるだろう。

 ところで、インバウンド需要の拡大は、日本経済の潜在成長率の向上に繋がることが期待される、重要な成長戦略の一つである。昨年来の日韓関係の悪化の影響に続いて、新型肺炎の影響でインバウンド需要が二重の打撃を受けることは、当面の日本経済だけでなく中長期の展望にも悪影響を与える可能性がある点が大いに懸念されるところだ。