セルソース社長と3人のスプリントコーチがアジアマスターズを制覇するまで

 この冬、陸上未経験の上場企業社長と、3人の元陸上選手が、アジアで金メダルを獲得した。12月にマレーシアの地方都市クチンで行われた陸上のアジアマスターズ、M35(35歳以上)4×100メートルリレー。優勝したのは、日本代表チームだった。

「試合に練習の成果が出て、本気のガッツポーズをするなんて、この年で普通ないじゃないですか。仲間との達成感を自分が意志決定することで得られた。本当に素晴らしい経験ができたなと思っています」

 そう語ったのは裙本理人、37歳。再生医療を手掛ける「セルソース」の経営者である。昨年、東京証券取引所マザーズ市場に新規上場し、急成長する新興企業。しかし、陸上経験ゼロの男がなぜ、アンカーを務め、金メダルを手に入れるに至ったのか。

 4人のストーリーを紐説くと、大人たちの「本気」のストーリーが見えてきた。

 きっかけは裙本と2人の元スプリンターの出会いにある。伊藤友広と秋本真吾。アテネ五輪1600メートル4位と元200メートル障害アジア記録保持者の37歳だ。スプリント指導のプロ組織「0.01 SPRINT PROJECT」を主宰し、プロ野球、Jリーグなどトップアスリートから全国の小学生まで指導を手がけ、陸上界で注目の存在。同い年の裙本は2人のプロスプリントコーチと昨春に知り合った。

「セルソース」所属となったマラソンの神野大地を短距離出身の2人が指導することになり、タッグを結成。当時、秋本は指導のデモンストレーションをする際に負った右膝の半月板損傷で、痛みを抱えている状態。そこで「セルソース」が手掛ける再生医療の「PRP-FD注射」を用いて復活を目指すことに。初めて治療を受けた日に設けられた関係者の食事の席で、秋本は裙本に提案した。

「マスターズって面白いんですよ。良かったら、リレー出てみませんか?」

 秋本は前年、「コーチングだけでなく、走って見せられる指導者でいたい」という思いから一念発起し、世界マスターズに挑戦。その面白さを知っていた。何気なく言ったひと言。ただし、裙本は5歳から社会人まで剣道に打ち込んでおり、最近はトライアスロンに励むなど、スポーツ愛好家ではあるが、陸上は未経験。いきなり本格的なマスターズはハードルが高い……はずだった。

「面白そうですね、やりましょうよ」。答えは、予想外に乗り気な言葉だった。

「多少不安はあったけど、基本的に楽観的なんです」と裙本。「何より最高のコーチ陣がいる。指導を受ければそれなりになると思ったし、ここでやらなかったら短距離をやるチャンスなんてない。故障からアスリートが復活する支援の過程を間近で見て、一緒に体験できるなんて刺激になるだろうと。1人だったらやらないけど、同世代の仲間もいる。直感です」と当時を思い返した。

 まさかの返答で始まったマスターズ挑戦の道。同席していた伊藤も巻き込み、翌年の世界マスターズ出場を目標にスタートしたが、裙本が海外サイトを調べ上げ、年末にアジアマスターズがマレーシアで行われると知り、「アジアで金メダル」と軌道修正。秋本と同じように北海道でプロスプリントコーチとして活動する元全日本実業団100メートル優勝の35歳・仁井有介に声をかけた。

「何よりも思いを共感できる人と一緒にやってみたかった」と伊藤。優勝を狙うだけなら、元オリンピアンを集めればいい。しかし、1人の陸上未経験者と3人のスプリントコーチで、夢を追うから面白い。こうして「M35クラス」で異色チームが結成された。

難しかった練習時間の確保、裙本は伊藤&秋本の指導で走りがみるみる変化

「最初は『何を言っているんだろう?』と思ったけど、伊藤さん、秋本さんの働き方を見ていて、ずっと素晴らしいと思っていたし、裙本さんという上場企業の社長さんも一緒に挑戦する。これは面白そうだなと」。そう感じた仁井の予感は、的中する。

 とはいえ、一筋縄でいくような挑戦ではなかった。「難しさはみんな、それぞれに仕事があること」と伊藤が振り返った通り、それぞれの分野で多忙を極める4人。問題となったことは、練習時間の確保だった。

 とりわけ、社長業を務める裙本は日中の通常業務のほか、夜は連日のように会食がある。しかも、会社を上場させようという重要なタイミングとも重なっていた。そんな中、それまで日課としていたランニングの時間を練習に充てた。朝7時40分から1時間、週3日。坂道ダッシュを150メートル×4本など走り込み、日によっては出社してから代々木公園へ練習に向かうこともあった。

 当初は短距離トレーニングの初歩に起こりやすい、脛の内側の痛みに悩まされた。それでも「他のメンバーはみんな速い。僕だけ遅くて、足を引っ張ったらまずい。迷惑をかけてしまう」という思いで必死に取り組んだ。それに触発されるように、伊藤、仁井も追い込み、秋本は妻と娘が寝静まった夜9時半からジムでウエイトに励み、帰りに坂道を探してダッシュを繰り返した。

 裙本のタイム短縮も課題だった。月2度は伊藤、秋本が直接指導し、走り方のフォームを見直した。「剣道は後ろ足で踏み込むので、必要以上に左足を後ろへ蹴り出してしまい、体の後ろで足が回転する癖を修正した」と伊藤。多くのトップアスリートの走りを変えてきた指導の効果の大きさは、裙本も体で感じた。50メートルは6秒5を記録。時を追うごとにタイムは着実に短縮した。

「走りの概念が変わった。足を接地して蹴り出す力強さが必要と思っていたけど、アキレス腱を使えばバネみたいにグーンと伸びていく。走りの感覚が変わっていく体験が得られた」

 8月には前哨戦として北海道マスターズに出場し、そのまま合宿も実施。普段、北海道を拠点としている仁井は裙本と初めて対面し、バトンパスの呼吸も合わせた。こうして1歩ずつ前進し、迎えた12月の本番。4人はマレーシアに渡った。先に行われた個人の100メートルは秋本が優勝、仁井が4位、伊藤が決勝進出。裙本は自己ベスト更新とそれぞれが実力を発揮し、大本命に挑んだ。

 400メートルリレー決勝。「バトンミスさえしなければいける。緊張感はなかった」と秋本。4人には自信があった。

 号砲が鳴る。抜群のスピードで飛び出したのは、最年少の仁井。現役時代から売りだった加速力で先頭に立った。2走の秋本は4人の中で最もハードなトレーニングを積んだ成果を生かし、リードを広げた。3走の伊藤が元オリンピアンの実力を発揮して先頭のまま、アンカー裙本にバトンパス。ここでやや手間取ったが、練習で培ったフォームは大舞台でも崩れず、懸命に足を回した。

 そのままリードを保って先頭でフィニッシュ。タイムは44秒91、目標としてきた「アジアNo.1」を成就させた瞬間だった。

「感動して泣きました。100メートルの優勝よりずっとうれしくて。僕が誘って忙しい4人がトレーニングして最高の結果になってめちゃくちゃ嬉しかった」と秋本。未経験から目標達成した裙本は「スタート位置で隣は海外の選手で、もちろん全員が陸上経験者。すごくワクワクした。長距離と違って、短距離のリレーはスタートして1分以内で決まる。自分のパートは10秒で終わる。その分、喜びの爆発力が大きい」と振り返った。

 表彰式。賞状を手に金メダルを胸に提げた4人の表情には、これ以上ない充実感が滲んでいた。

9か月のトレーニングでアジアマスターズ優勝の目標を達成した【写真提供:伊藤友広】

4人の挑戦の本質「何かをやることに、年齢とタイミングなんて関係ない」

 ただ、今回の挑戦については、単に「金メダル」という成果獲得だけに価値があったわけではない。特に、陸上選手としてトップを目指してきた3人にとっては新たな発見もあった。伊藤は「現役時代、試合に出るモチベーションは自己ベストが出るか、日本代表になれるかだけ。今回は若い時と違う走ることの楽しみを体験できた。だからこそ、誰とやるかも大事と思った」と言った。

「35歳になって、全力で競走することがこんなに楽しいって忘れていたのかとスポーツの面白さを再確認することができた」と語ったのは仁井。「こんなに全力を出す瞬間って大人になるとないもの。子供からすれば、もうおじさんの世代。でも、子供たちに『全力でやると楽しいよ』と口では言うけど、今回の経験を通して伝えると『マジで凄いね』と理解してくれた」と明かした。

 3人とも、指導者としての発見もあったという。とりわけ、トップアスリートをメインで指導する秋本は「世界マスターズの時は走ってばかりいて、基礎的な体力、筋力を重視しなかった。それで足りてなかった部分がウエイト。今回、初めて取り入れてみると、力の入り方や感覚の変化も感じた。それを再確認できたことはこうやって競技者としてやる意味があった」と実感している。

 いずれも“椅子に座っている”タイプの指導者ではない。常に自らの体で動き、見せ、指導するという信念を貫いている「プロスプリントコーチ」だからこそ、過去の知識、経験だけに頼らない学びを身をもって知ることができた。一方で、陸上未経験から挑戦した裙本には、また違った価値があった。「あの夜に前向きに決断したことによって、いろんな気づきを得た」と振り返る。

 その一つが、「短距離とビジネス」に共通する「PDCA(計画→実行→評価→改善)」のサイクルだ。「目標に向かって課題を認識して、どうトレーニングするかプランニングする。考え方のロジックは一緒だと感じた」と回顧。伊藤は「説明した時の理解力が凄く高くて、質問が本質を突いている。本番の集中力が凄まじいし、ここぞで力を発揮できるのはさすがと感じた」と驚いた。

 大人になって本気で走り、仲間とバトンをつなぎ、達成感を共有するというのは年をとれば取るほど、非日常になっていく。しかし、4人の話を聞いていて共通するのは、常に新しい出会いを求め、挑戦を面白がり、それを実行しようとする意志と行動力。「何かをやることに、年齢とタイミングなんて関係ないんだなと感じた」と語った仁井の言葉が、4人の挑戦の本質を表していた。

 しかし、挑戦はアジアで終わりではない。7月にカナダで行われる世界マスターズを目指し、挑戦は続く。発起人となった秋本は「アスリートだけじゃなく、一般の人も限界というものをどこかに感じてしまうものだけど、何かを本気でやることは“自分で決めた限界”を壊すきっかけになる。今後、マスターズという存在がそういう位置づけの一つになっていってほしい」と語った。

 年齢とは“数字”にしか過ぎない。本気になった大人はスゴイ。それを証明し続けるため、4人は走ることをやめない。(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)