あの日の広島へ遺影の妻を連れて「2人の幸せ感じる日」

あの日の広島へ遺影の妻を連れて「2人の幸せ感じる日」

 まもなく原爆投下から72年。被爆者の平均年齢は81歳を超え、長年連れ添った伴侶を失う人も多い。下桶(しもおけ)敏之さん(86)は6日、兵庫県の遺族代表として妻の死後初めて、故郷・広島の土を踏む。もう一度会える。そんな気がして――。

 「お父ちゃん、あの時は大変だったねぇ」「よっちゃんも苦労したね」

 兵庫県宝塚市内のマンションの13階。毎年8月6日、テレビで広島平和記念式典を見ながら、敏之さんは三つ年上の妻佳子(よしこ)さんと、こんな会話を交わしたのを覚えている。2人が原爆のことを話すのは、この部屋の中でだけだった。

 敏之さんは1945年8月6日、爆心地から1・7キロの比治山(ひじやま)橋近くの校庭(現広島市南区)で、佳子さんは約2・5キロの軍需工場で、それぞれ被爆した。惨禍を生き延び、広島で大人になった。

 2人は、勤め先の日本銀行広島支店で出会った。ほどなく、お互いが被爆者だと知った。同僚が飲み会ではしゃいでいても、あの時亡くなった人に申し訳ない気がして居心地が悪い。そんなところもよく似ていた。57年、敏之さんの東京転勤を機に結婚。61年には長女が生まれた。その長女の高校進学前に、宝塚市に居を構えた。

 だが被爆後、佳子さんは病に悩まされた。胆囊(たんのう)炎、胆石症、子宮筋腫、白内障、C型肝炎。年とともに病名が増えていく。

 「あの戦争に、あの日の経験に、ここまで苦しめられるのか。原爆にさえ遭っていなければ……」

 憤る敏之さんは2007年、佳子さんの代わりに、原爆が病気の原因だと認めるよう県を通じて国に申請したが、却下された。「原爆症」と認定されたのは、肝臓がんが見つかった後だ。10年3月、認定を知らせる通知を開いた約1週間後に、佳子さんは亡くなった。82歳だった。

 その死から3年たったころだった。遺品を整理していた敏之さんは、見慣れないノートを10冊ほど見つけた。佳子さんが、日々の出来事を記した雑記帳だった。

 「今日は50回目の結婚記念日です。金婚式●(●はハート)」

 「お父さんおたんじょう日おめでとう 鯛(たい)のおかしら食べて生き生き!!」

 「お父ちゃん、結婚してくれてありがとう。お父ちゃんと結婚してよかった」

 病院食のメニューや薬の種類を書き付けたメモに交じって、こんな言葉が書かれていた。どれも初めて見る妻の言葉。「もっと話をしてやればよかった。『ありがとう』と言いたいのは私だよ」。胸が詰まり、ノートの前で手を合わせた。

 6日の広島平和記念式典には、佳子さんの小さな遺影を持って行くつもりだ。

 「お互い原爆に遭い、同じような苦しみを味わってきました。8月6日は悲しい日だけど、2人でいられる幸せを感じる日でした。今年は広島で、ゆっくり話したい。まだ妻に、嫌われていないと思いますから」(久保田侑暉)

     ◇

 〈広島平和記念式典〉 原爆死没者を慰霊し、平和を祈念する式典で、毎年8月6日に、広島市中区の広島平和記念公園で開かれる。政府関係者や世界各国の大使、被爆者のほか、各都道府県からも被爆者の遺族代表が参列。今年は37都道府県から遺族が集まる。戦後70年余りが経過し、過去最少となった昨年と同数だ。

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