九回2死、「奇跡」は始まる 中京大中京×日本文理

九回2死、「奇跡」は始まる 中京大中京×日本文理

(2009年決勝 中京大中京10―9日本文理 その1)

 「いろんな人に、あのとき、どんな気持ちだったのかと聞かれるけれど、表現できないんです。ブラスバンドの音もかき消されるほどの声で、自分の名が響いていた。とにかく、不思議な感じでした」

 九回2死満塁。手拍子とともに「伊藤」コールが甲子園球場を包んでいった。2009年8月24日、中京大中京と日本文理の決勝。球場を興奮の渦に巻き込んだのは、6点差を追う日本文理の九回2死走者なしからの猛攻だった。

 連打に四死球。瞬く間に本塁打が出れば同点の場面を作り、打席には甲子園を一人で投げ抜いてきたエース伊藤直輝が立っていた。

 「鳥肌が立った。ただ、ボールはしっかり見えていた」。三遊間を割り、2者が生還して8―10。「つないだ、つないだ! 日本文理の夏はまだ終わらな〜い!」。テレビ中継では、朝日放送の小縣裕介アナウンサーの絶叫が響いた。

 「つなぐ」。怒濤(どとう)の反撃は、練習時間の8割を打撃に費やしたというチームの集大成だった。

 「このときのチームは自分で決めるのではなく、『頼むぞ』と後ろにつなぐ姿勢があった。凡退や四球のあとに何度も聞いていた言葉が、あの場面でも出ていた」。日本文理の大井道夫監督は振り返る。

 「決勝で思い出す暇はなかったと思うけど」と断った上で、大井監督が引き合いに出した一戦がある。前年秋の北信越大会決勝、富山商との対戦だ。五回を終えて6点差をつけられていたが、六回に2点、八回に7点を奪って逆転勝ち。主将の中村大地は「自分たちの合言葉は『まだまだ』。富山商戦も中京大中京戦も、リードされても落ち込んでいなかった」。

 あの夏のドラマは、2死から1番の切手孝太がフルカウントから四球を選んだところから始まった。誰もが認めるムードメーカーの出塁が「まだ行ける」という雰囲気を呼び起こした。

 決勝前、大井監督は選手に「笑って新潟に帰ろう」と伝えていた。「とにかく頑張ろうと。みんな120%以上の力を出していたから、それ以上のことは言えなかった」

■土壇場で伝統校飲み込む

 両校の実績には、圧倒的な差があった。

 史上最多、7度目の日本一を目指す中京大中京は、初戦で龍谷大平安(京都)を破った時点で夏の全国選手権で初となる通算70勝を達成。一方の日本文理は、初戦で寒川(香川)に競り勝ったのが5回目の夏の甲子園で初の白星だった。

 大会前まで新潟勢の夏の勝ち星は16勝(48敗)。都道府県別の最下位で、4強に進んだことすらない。その新潟の代表校が、土壇場で伝統校をのみ込もうとしていた。

 伊藤に続き、代打・石塚雅俊も適時打を放って1点差。若林尚希がこの回2度目の打席に向かう。試合時間2時間30分のうち、「奇跡」とも語られる2死からの反撃は約19分に及んだ。その最後は一瞬で、強烈な印象を残す。打球は快音とともに三塁手の正面へ。若林は「抜けたと思った打球が捕られていた。マジか……と」。打席から数歩進んだところで、ひざから崩れ落ちた。

 中京大中京のエース堂林翔太は、最後の瞬間を右翼手として迎えた。九回に再登板。2死を奪ったが、死球を与えたところで交代した。いま、プロ野球広島でプレーする堂林は「勝ったというより、終わったんだという思いが強かった。正直、優勝したという実感はなかった」。試合後の場内インタビューでは涙を我慢できなかった。

 「僕らは幸せ者」と伊藤は言う。「勝ったわけでもないのに、勝った雰囲気で終われるなんてまれだと思う。あの九回がなければ、ただの新潟勢初の決勝進出で終わっていた」

■大井監督が憧れた「打撃のチーム」

 崖っぷちで猛打をふるった日本文理は、この夏の甲子園全5試合で2桁安打を放ち、出場校トップのチーム打率3割9分8厘。それは、大井監督が憧れた「打撃のチーム」の姿だった。

 ちょうど50年前の1959年。栃木勢初の決勝進出を果たした宇都宮工のエースが大井だった。身長約170センチ。小柄な左腕は、カーブを武器に接戦に耐えてチームを準優勝に導いた。

 初戦の2―1に始まり、準々決勝は1―0、準決勝は延長十回で2―1と2試合連続サヨナラ勝ち。西条(愛媛)との決勝は2―2で延長十五回へ。一人で甲子園を投げ抜いてきた大井はここで6点を失い、涙をのんだ。

 早大で野手として活躍した後、地元の宇都宮市で家業の割烹(かっぽう)料理店を継いだ大井は、62年に甲子園で史上初の春夏連覇を達成した作新学院(栃木)の山本理(おさむ)監督の紹介をきっかけに、45歳になる86年に創部3年目の日本文理(当時は新潟文理)の監督に就任した。田んぼに囲まれたグラウンドは石ころだらけ。道具もろくにそろっていない状態からのスタートだった。

 「俺が高校のときは守り勝つ野球。だから、積極的に打ち勝つ野球をやりたかった」。徐々に力をつけ、97年夏に甲子園初出場。初戦は序盤に5点リードを奪ったものの、被安打21で6―19で逆転負け。相手は、その夏を制した智弁和歌山だった。「あんな打撃をできるようにしないと」と指揮官は更に奮い立つ。

 2006年春に挙げた甲子園初勝利は日本文理にとってだけでなく、全国で唯一、選抜で未勝利だった新潟勢にとっても悲願の初白星。だが、夏の勝利は遠かった。初出場から02、04、06年と、ことごとく初戦で跳ね返された。

 負ける度に打撃練習に試行錯誤を重ねた。振り込む数を増やす。緩い球を引きつけて打つ。08年夏は新潟大会準決勝で敗れると「速球に力負けしない打撃を」と、新チームには打撃投手を2メートルほど打者に近づけて投げさせた。

 成果はすぐに出ず「おまえたちは火縄銃だ」と突き放したこともあったが、選手はたくましさを増していく。北信越大会決勝の逆転劇に始まり、最後は夏の決勝の猛打。「リトルマシンガンには成長したかな」。大井監督は目を細めた。

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