中京大中京、激闘から一夜明け合唱した「栄光の甲子園」

中京大中京、激闘から一夜明け合唱した「栄光の甲子園」

(2009年決勝 中京大中京10―9日本文理 その3)

 「最後に振らされて終わるのだけは嫌。ストライクでも低めは振らない」

 九回2死。堂林に変化球で3度打ち取られていた1番切手は、こう決意して打席に向かった。カウント2―2からも、2球続いたスライダーを見極める。6球目はバットが出かかった。「見逃し三振でも後悔しない。決めていなかったら振っていたかも」。四球でつなぐと、二盗も決めた。

 高橋隼は9球目を左中間に適時二塁打。武石は7球目を右翼線へ適時三塁打。3人で22球。粘りに粘る。

 まさかの出来事も続いた。試合終了かと思われた吉田の邪飛は、三塁手・河合が追った後方のコーチスボックスで弾んだ。この直後に堂林は吉田に当ててしまう。この試合97球目だった。抜けた直球は「限界のサイン」と大藤監督。一塁から森本が再び登板し、堂林は右翼の守備についた。

 八回に森本から中前安打を放っていた高橋義は「打てる気しかしなかった」。この夏、甲子園で打率トップの6割3分6厘。初球から強振し、フルカウントから四球を選んだ。

 伊藤! 伊藤!。

 その声は、高橋義の打席の最中から次打者席の伊藤の耳に届き始めたという。「歓声が打たせてくれたと思う」。左前2点適時打で2点差とした。

 続く代打・石塚は仲間が立たせた打者だった。森本が再登板した頃、石塚は代打があるなら途中出場の2年生、矢口正史の打席と踏んで大井監督に直訴した。だが、他の選手の起用を考えていた監督は首を横に振る。石塚は春夏の甲子園で1度ずつ代打に出て2三振。「確かに打ってないよな」。打撃用手袋を外しかけたとき、中村と切手が監督に詰め寄っていた。

 「あいつずっと練習していたので絶対に打てます。石塚でアウトなら、みんな納得します」。選手の言葉に、監督がうなずいた。

 初球を思い切り引っ張った。伊藤に打たれた136キロの後、森本が投げた94キロだった。石塚は捕手。「打ち気にはやる代打には緩いカーブで入った方がバランスを崩す」と監督から教えられたことを思い出していた。「その球が来るかなと事前に考えていた」。左前適時打。一塁上からベンチへ両手を突き上げた。

 5者連続得点でなお一、三塁。九回の先頭で三振に倒れた若林が再びバットを握りしめる。「絶対に中村につなぐ」。2球目。内寄りに来た136キロだった。鋭いライナーは三塁手の河合の正面へ。つないでつないだ反撃が、終わった。

■微妙に変化した最後の直球

 森本の最後の直球は微妙に変化していた。九回に一度、一塁を守った森本は再登板したときに腕が振れていないのを感じていた。その分、最後の1球は「ちょっとシュートして沈んだ。だから、打たれた瞬間に捕れる高さじゃないかと思った。普通のまっすぐだったら、打球はスタンドに入っていたレベルだったと思う」。わずかな変化が、明暗を分けた。

 顔の左横付近で打球をつかんだ河合は「やっと終わってくれたって、涙が出てきた」。多くの選手はマウンドで歓喜の輪を作ることなく整列へと走った。主将の山中渉伍は「ゲームセットと言われて初めて試合が成立する。最後の最後までやりきるんだと春からやってきたことが、ああいう形になったと思うんです」。

 大藤監督は九回、普段通り腕を組んでじっと座っていたが「正直、うろたえていた」と明かす。九回裏の攻撃は、2番からだというのも頭をよぎっていた。

 自身は三塁手として79年夏の甲子園でプレー。中京大を経て静岡の高校でコーチをしていたとき、中京が66年に春夏連覇を果たしたときの名将・杉浦藤文から「帰って来い」と声がかかった。

 28歳だった90年夏から母校を率いて20年目。中京にとって66年以来の頂点だ。勝てずに苦しんだ時期も長く、場内インタビューでは「OBの皆様にはふがいない悔しい思いをさせていた」と言った。深紅の大優勝旗を手にした選手の行進を見て感極まる。「長いこと、この優勝旗が返ってきていなかったんだ」。ベンチ前で肩を震わせた。

 夏の愛知大会が始まった日、大藤監督は学校のグラウンドで部員を集めると突然、ゆずの「栄光の架橋」を歌った。厳しい練習に耐えてきた部員へ感謝の気持ちも込めて。そして、歌詞の「架橋へと」の部分を、「甲子園へと」に替えて。

 日本一の翌日、今度は宿舎で監督を囲んだ部員がその歌を口ずさむ。「優勝もうれしかったけれど、あのときの方がうれしかったかもしれない」と大藤監督。大合唱は途中から涙声へ、号泣へと変わっていった。

 日本文理の選手たちは決勝の翌日、新潟空港に詰めかけた1千人の出迎えに目を見張る。大井監督は「これで新潟県民になれた」と口にした。監督になって数年で新潟に住民票を移しても「いつか(宇都宮に)帰っちゃう」の声が聞こえてきた。一方で部員の保護者が練習の環境作りから支えてくれた。打撃用ネットやグラウンド脇にある観戦用ベンチなどは保護者らの手作りだ。

 08年に「全国制覇」の文字を左翼フェンスに掲げて新潟勢も日本一を狙えることを示し、「やっと恩返しが出来たと思った」。

■「あの攻撃は自分にも勇気」

 九回の攻防。社会人になった両校の選手たちはどう感じているのだろうか。

 最初に反撃の適時打を放った日本文理の高橋隼は「あの攻撃は自分にも勇気を与えてくれた。逆境に立たされても、あきらめなければ先につながる」。

 中京大中京には選抜前に背番号を失いながら、日本一の瞬間をグラウンドで迎えた選手がいた。八回から左翼に入った背番号17の盛政仁至。4月中旬の練習試合で4安打し、メンバーに復帰した。「裏方としてチームを支えていこうと決意した頃。僕の中にもいっぱい奇跡があった」。主将の山中は「九回の苦しい時も、あいつを見たらあきらめたらあかんと思えた」。

 あと一歩で逃した新潟勢初優勝も、それでよかったと思うと切手は言う。「準優勝だったから、新潟県の次の目標があるじゃないですか!」。夢も、後輩球児につなぐ。

(上山浩也。敬称は基本的に略しました)

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