今年もあの日がやってきた。5月1日──そう、アイルトン・セナの命日だ。セナが天に召されたのは1994年にイタリア・イモラで開催されたサンマリノGPだった。このグランプリではセナの事故死以外にも多くの悲劇が起き、「呪われた週末」と言われた。当時の取材メモをもとに、なぜ悲劇は起き、F1はそこから何を学んだのかを振り返ってみたい。

【原因1】速いが、運転しにくいマシン

 当時のF1はグランプリ初日の金曜日と2日目の土曜日にそれぞれ予選を行い、ベストタイムで日曜日のスターティンググリッドを決めていた。

 グランプリ初日の4月29日、金曜日午前中のフリー走行後、午後1時から開始された予選1回目はカール・ベンドリンガー、ハインツ-ハラルド・フレンツェン(ともにザウバー)、ローランド・ラッツェンバーガー(シムテック)、ジョニー・ハーバート(ロータス)の順でコースインして、タイムアタックがスタートしていった。

 事故が起きたのは、アイルトン・セナが暫定ポールポジションタイムとなる1分22秒430をマークした1分後の午後1時16分のことだった。ジョーダンのルーベンス・バリチェロのマシンが最終コーナー手前にあるシケイン、バリアンテ・バッサでコントロールを失い、コースアウト。タイヤバリアとその後ろにあったフェンスに激突した。5分後にコクピットから救出されたバリチェロは、ボローニャのマジョーレ病院にヘリコプターで搬送された。


 翌日以降も大事故が続いたため、金曜日の事故はこのバリチェロのクラッシュぐらいしか報じられていないが、じつは金曜日には多くのマシンが事故に見舞われていた。

 バリチェロの事故後、再開された予選ではマーティン・ブランドルがバリチェロと同じ場所でスピンした後、コンクリートウォールに接触。オリビエ・ベレッタ(ラルース)もまたバリアンテ・バッサでコントロールを失い、クラッシュ。エディ・アーバインの代役として出場していたアンドレア・デ・チェザリス(ジョーダン)はピラテラでコースアウトし、コンクリートウォールに接触し、マシンを止めていた。

 この年のF1はサンマリノGP前から、事故が続いていた。シーズン前のテストでJJ・レートがクラッシュし頚骨を骨折。開幕後のテストではジャン・アレジもクラッシュして負傷し、2戦の欠場を余儀なくされていた。新人ドライバーならともかく、表彰台経験者による相次ぐクラッシュは、この年に変更されたテクニカルレギュレーションが無関係ではなかったといってもいいだろう。

 この年のF1は前年まで使用が許可されていたアクティブサスペンションなどのハイテク技術が禁止されたものの、エンジンに関する変更はなかったため、マシンは速くなっていた。

 その証拠にバリチェロの事故後に再開された予選1回目は、セナが自己ベストを更新して、暫定ポールポジションに就いたが、そのときセナが叩き出したタイムである1分21秒548は、前年にアラン・プロストが記録した1分22秒070というポールポジションタイムを大きく上回っていた。セナのこのタイムは予選1回目のタイムだったことを考えると、1994年のF1が前年からかなり速くなっていることがわかる(img006.jpg)。

 つまり、1994年のドライバーたちは速くなった怪物マシンを腕でねじ伏せなければならない状況となっていたわけである。そのため、ちょっとしたミスやトラブルによってコントロール不能に陥り、クラッシュが相次いだと考えられる。

 そのことは、FIA(国際自動車連盟)がシーズン途中にもかかわらず、インダクションポッドからエンジンのインテークの途中のエアボックスに穴を設置し、ラム圧の低減させて馬力の低減を図ったことでもわかる。

 世界最高のF1ドライバーでも事故を起こすのは、そこになんらかの理由があるからだ。サンマリノGP以前に発生していた事故をきちんと検証していれば、サンマリノGPで土曜日以降に続く、さらに大きな悲劇は防げていたかもしれない。