東北高校への憧れ

 大越基は中学3年生の秋の日のことを今でもよく覚えている。
 
 その日、彼は父親と共に仙台市内の東北高校野球部の練習を見学することになっていた。大越にとって東北高校の縦縞のユニフォームは小学生のときから憧れだった。東北高校で野球をしたいという大越のため、父親が学校に連絡をとってくれたのだ。
 
 1971年5月、大越は宮城県宮城郡七ヶ浜町で産まれている。野球とふれ合った時期は早い。幼稚園児の頃、一人でコンクリートの壁めがけて軟式ボールを投げていた記憶があるという。小学3年生から、地元の少年野球チームに入っている。強肩を買われて、小学5年生からエースとなり、全国大会に出場している。
 
 小学6年生のとき、父親の転勤により青森県八戸市に引っ越している。地元の八戸第二中学校の野球部に入ったが、それほど強いチームではなかった。中学3年生の最後の大会で八戸市内で準優勝となったのが最高の成績である。地元の高校の野球部から誘いはあったが、野球の盛んな宮城県の高校へ進学したいと大越は考えていた。
 
「東北地方って、当時は巨人戦しか放映がなかった。うちは親父がアンチジャイアンツだったので、ぼくも巨人が嫌いになってました。だからあまりプロ野球を見ていなかった。それよりもぼくは小学生のときから高校野球マニアだったんです。東北の高校を応援していて、特に宮城県生まれだったので縦縞の東北高校。あのユニフォームで1番をつけて甲子園に行くのが夢でした。校歌も空で歌うことができるぐらいでしたから」
 
 ただ、両親は自分の息子が名門野球部で通用するとは考えていなかった。野球部の厳しい練習を見せれば、諦めるだろうと父親は考えていたのだ。
 
「憧れの東北高校のグラウンドに入ったときは感激しました。書類を出されて、名前、中学校とポジションを書いてくれと言われました。それで終わり。来たければ来れば、という感じでした」
 
 わざわざ八戸市から連絡を入れて来たのだ。どのような選手なのか、得意な球は何なのか、色々と聞かれるだろうという心づもりをしていた。しかし、東北高校のような名門校の野球部では期待される選手ではないのだと冷や水を浴びせられたような気分だった。
 
「東北高校で色々と時間が掛かるだろうと計算して親父は帰りの新幹線を取っていたんです。すぐに終わってしまったので、むっちゃ時間があった」
 
 父親は思いついたように「仙台育英に行ってみるか」と言った。
 
「仙台育英?」
 
 その言葉を聞いて大越は思わず顔をしかめた。

運命的な出会い

 仙台育英高校は仙台駅の近く、宮城球場の隣にあった。七ヶ浜に住んでいた頃、宮城球場に野球を観に行ったことがあった。高校を取り囲む塀に、成人向けの漫画誌が捨てられており、すさんだ雰囲気だと子ども心ながら感じていたのだ。
 
 新幹線の時間までまだあるから行こう、大越は父親に引っ張られる形で仙台育英の練習場に足を踏み入れた――。
 
(何? この空間は?)
 
 思わず大越は心の中で叫んでいた。
 
「秋季大会で負けているのに、気合いが入った練習をしているんです。熱気があって、そこに吸い込まれてしまった。これは凄い。自分が求めていたものだ、と」
 
 気がつくと大越はバックネット裏で金網にしがみついて練習を見ていた。そして、眼に入った投球練習場に引きつけられるように歩いていた。
 
 そんな大越に男が声を掛けた。
 
「君、どこから来たんだ」
「青森県の八戸です」
 
 大越が答えると矢継ぎ早に質問された。
 
「ポジションは?」
「ピッチャーです」
「ちょっと投げてみるか?」
 
 仙台育英高校野球部の監督、竹田利秋だった。
 この竹田こそ、東北高校野球部を東北屈指の名門校へと鍛え上げた監督だった。竹田は85年から仙台育英に移っていたことを大越は知らなかった。
 
「練習見ていてアドレナリンが相当出ていたんでしょうね。立ち投げだったんですけれど、キャッチャーのミットがしなるぐらい速い球が投げられた。監督の顔をみたら、うわっみたいな感じになっていた。心の中で、来たーって言ってましたね」
 
 竹田は大越を監督室に呼び寄せると、書類に連絡先などを書かせた。
 
「親父は、新幹線の時間がある、もう時間がないって言っていたんですけれど、ぶわっと書いて駅に向かいました」
 
 家に向かう新幹線の中で大越は仙台育英で野球をやることを決心していた。

春のセンバツで痛感した力の差

 高校3年生の春、大越は仙台育英の背番号「1」をつけて甲子園を踏んでいる。1回戦は徳島県の小松島西を3対2、続く2回戦も兵庫県の尼崎北を2対1で破った。そして準々決勝で大阪府の上宮高校で対戦した。
 
「四国、そして兵庫県の代表を抑えられたからそこそこできると思ったら、全く通用しなかったですね。どこを投げても打たれるという感覚になったのは初めてでした」
 
 試合は2対5の完敗だった――。
 
「自分の中では2対10ぐらいで負けた感じでしたね」
 
 特に1番打者の種田仁には5打数3安打、4番の元木大介には4打数2安打2打点と打ち込まれている。ご存じのように、二人はプロ野球からドラフト指名を受けて、種田は中日、元木は巨人のユニフォームを着ることになった。
 
「帰りの新幹線の中で、上には上がいる、俺はやっぱり通用しない人間なんだ、もっと練習しようと考えてました。そこから夏までは率先して練習していましたし、竹田先生に怒られたことはなかったはずです」

上宮へのリベンジで夢叶える

 宮城県大会を1試合以外コールド勝利という圧倒的な力の差を見せ、仙台育英は夏の甲子園の出場権を手にした。
 
 1989年の第71回全国高校野球選手権大会、仙台育英は1回戦で鹿児島商工、2回戦で京都西、3回戦では弘前工業を破った。そして準々決勝で再び上宮と対戦することになった。
 
「試合前、楽しみでもありましたし、弱気もありました。春の嫌な感じが躯には残っていましたし」
 
 試合が始まり、マウンドに上がると不思議なぐらい、春に打たれた感覚は消えていたという。
 
「もう本当にぶった切ってやろうと。特に元木。彼は甲子園のアイドルで、キャーキャー言われていた。こっちは不細工な顔で芋臭いピッチングフォーム。元木の金属バットをへし折ってやろうという感じで投げてました」
 
 大越は右腕を思いきり振って、勢いのいいストレートを投げ込み、上宮の打者をねじ伏せていく。元木には4打数1安打という成績だった。
 
「でも種田には5打数2安打。選抜から通算で10(打数)の5(安打)で打たれてます。嫌らしいバッターでしたね。投げるボール、投げるボール、バットに当ててくる。こいつ、いいセンスしているなぁ、と。元木、元木って言われているけど、センスは種田のほうがあるんじゃないかと思ってました」
 
 試合は10対2で仙台育英が勝利した。その夜、大越は宿舎のトイレに入り、一人で勝利を噛みしめていたという。
 
「五人部屋だったから、みんなといると余韻に浸れないじゃないですか? 便器に腰掛けて、あー良かった、と」
 
 仙台育英は尽誠学園戦でも勝利、初めて決勝に進出する。決勝では延長戦の末、帝京高校に敗れ、準優勝となった。
 
 小学生の頃、大越は甲子園の特集号が出ると、貯めていた小遣いを使って買っていた。そして、その一字一句を記憶するほど眺めていた。自分もここに載るような選手になりたい。彼はその夢を叶えたのだ。
 
 このときは、その反動で自分の心が空っぽになり、人生を大きく変えてしまうことなど、想像もしていなかった。
 
  
大越基(おおこし・もとい)
仙台育英高校3年時、エースとして春のセンバツに出場。同年、夏の甲子園では決勝戦で帝京高に敗れて準優勝。プロの誘いを断り早稲田大学へ進学するも中退、その後はアメリカで野球を続けた。92年ドラフト1位でダイエーホークスから1位指名を受けて入団。プロ入団後は投手としては結果が出ず、野手へ転向。99年には貴重な代走、守備要員として活躍。ダイエー初の日本一に貢献した。03年に現役引退。教員免許取得後に、07年に早鞆高校に保健体育の教員として着任。09年9月に野球部監督に就任。2012年春のセンバツで同校を甲子園出場に導く。
 
  
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