◆ 第2回:恩師に誓った復権

 キャンプ地の沖縄から東京へ、そして再び沖縄に。ヤクルト・高津新監督にとって2月12日は特別な一日となった。

 前日に恩師の野村克也氏が急死の報せ。報道陣の前に立った指揮官は人目も憚らず泣いた。この日は韓国・サムソンとの練習試合で初めて指揮を執る予定だったが急遽、予定を変更して偉大な師匠の下に駆けつけた。

 「必ず(天国で)見てくれていると思うので、恥ずかしくない戦いをします。野村監督の野球を継承します」。その目に涙はなく、戦う指揮官の鋭さを取り戻していた。

 野村さんが万年Bクラスのチームを建て直して、一時代を築いたように、高津にとっても茨の道からのスタートとなる。59勝82敗2分けの最下位。前年の敗因をあげれば弱体投手陣に尽きる。

 チーム防御率4.78は断トツのリーグワースト(※同5位のDeNAが「3.93」)だが、中身はもっとひどい。2ケタ勝利の投手が皆無(※最多が石川の8勝)なら、抑え投手のセーブ数も「28」しかない。前監督の小川淳司が引責辞任した後は、投手陣を建て直せる人材として二軍監督だった高津に声がかかるのは容易に想像できた。

 野村ヤクルトが日本一に駆け上がったのは1993年から95、97年の3度。このすべてで胴上げ投手としてマウンドに立っていたのが高津だ。亜大時代には小池秀郎(のちに近鉄)が絶対エースの二番手。その小池を視察に訪れたヤクルトスカウトの目に止まってプロ人生が開けた。元々、サイドスローから沈み込むシンカーを投げていたが、野村は速いシンカーに加えて、遅いシンカーを教え込んで投球の幅が広がった。


◆ 紆余曲折の中で得たもの

 セ・リーグの最優秀救援投手賞を4度、受賞するほどの名ストッパーだが、ヤクルト退団後の軌跡は波乱万丈と言っていい。メジャーリーグのホワイトソックスで抑え役を任されて素晴らしいスタートを切ったものの2年目以降は不振に陥り鳴かず飛ばずだった。

 その後は、韓国、台湾でも現役を続けたのち、国内に戻ってからはBCリーグの新潟でもプレーし、現役生活に終止符を打った。最後の1年は新潟の監督も兼任していたので、同リーグの監督経験者がNPBの監督に就くのは初となる。栄光も挫折も知る苦労人だ。

 「投手陣再建がチームを建て直す第一歩。一・二軍の投手コーチと素晴らしい、新しい投手陣を作っていきたい」監督就任の席でこう抱負を語った。沖縄・浦添キャンプに臨むにあたっては「選手ファースト」を宣言している。

 最下位からの巻き返しを狙うのだから、当然厳しい指導も求められるが、そこに選手の自主性を取り入れて、明るさも失わないのが高津流。メジャー経験のある監督として、練習メニューにもこれまで以上に選手個人が取り組む姿勢を求める。


◆ 苦しみの中の船出

 10年に一人の逸材と評判の奥川恭伸投手をドラフト1位で獲得。間違いなく将来のヤクルトを背負って立つ逸材だが、キャンプ直前に右ヒジの炎症が発覚して、調整は大幅に遅れることが確実になった。当初から大切に育てる方針の下で夏以降の一軍昇格を想定しているが、今後の本格化が待たれる。

 加えて、昨年大ブレークした「二十歳の怪童」村上宗隆選手がキャンプ序盤に下半身のコンディション不良を訴えて精密検査のために緊急帰京と想定外のアクシデントが続く。高津監督は楽観的な見通しを語っていたが、「4番・サード」を予定している村上の復帰が遅れるようだと大ピンチだ。

 恩師の死や看板スターの離脱など苦しみの中の船出となったが、立ち止まってはいられない。高津監督が指揮を執ることが出来なかった12日のサムソン戦では思わぬ掘り出し物が目を引いた。ソフトバンクの育成出身で昨年暮れにヤクルト入りした長谷川宙輝投手が2回を投げて4連続三振無失点の上々デビュー。ストレートは149キロを記録して球威もある。野村譲りの「再生工場」にも注目だ。

 去年の悔しさ、むなしさを忘れずにエネルギーにして戦おう、と選手たちに訴える高津新監督。師匠の死で泣きつくした後は笑顔で突き進むしかない。


文=荒川和夫(あらかわ・かずお)