現場、裏方すべてを知り尽くす野球人



昨年11月、東大の新指揮官に就任した井手峻監督。中日一筋でプレーし、引退後はコーチ、フロントでも手腕を発揮した

 母校・東大を率いる井手峻監督は75歳である。練習始動日となった1月11日、約3時間の練習中は一度も腰掛けることなく、立ちっぱなしで学生を指導。午後の自主練習もバッティングが始まると、すぐさまケージの真後ろでスイングチェックに余念がなかった。

 東大史上2人目のプロ野球選手は、中日で10年プレー。投手として1勝を挙げ、外野手としては貴重なバイプレーヤーとして359試合に出場。引退後はコーチを歴任し、ユニフォームを脱いだ後はフロント入りし、球団代表としても手腕を発揮。プロ野球の現場、裏方、すべてを知り尽くす野球人である。

 二軍監督の経験はあるが、チーム全体を統括する「監督」は初めてだ。井手新監督には、2人の理想の監督像がいるという。

 真っ先に名前が挙がったのが広島・古葉竹識監督。

「守備の作戦面から(コーチに任せず)すべて自分でやるんです。山内(一弘)監督が指揮した1984年にリーグ優勝争いをしたんですが惜しくも2位。『やられたな〜』という展開がいくつもありまた。これは勝てない、と」

 2人目は西本幸雄監督である。

「大毎、阪急、近鉄と率いてきて、すべてのチームですごい打線を作られる。東京六大学創立50周年記念試合(1975年)で(立大OB)の西本さんが打席に立たれたんです。どんな打撃を披露されるのかと思えば、見事なダウンスイングでした。最近はアッパースイングが多いように見受けられますが、私にはどうも理解できない。先日、張本(勲)さんにお会いする機会があり、そのあたりを聞いたんですが、ズバッ(喝)という返答はありませんでした……。選手の一生がかかっているから、そこまでは言えないそうです」

 今回、井手監督が指揮するのはプロではなく、学生野球だ。しかも、日本の最高学府の野球部であり、超難関入試を突破した秀才が入部してくる。甲子園経験者は不在。有力選手がそろう他の五大学(慶大、早大、明大、法大、立大)と比べれば選手層が厚いとは言えない。1998年春から昨秋まで44季連続最下位で、17年秋のシーズン終盤から42連敗と、厳しい戦いが続いている。大学野球の中でも、東大こそが、最も難しい現場かもしれない。

後世に残す財産に


 井手監督は同じタイミングで就任した大久保裕助監督の力を借りながらも、基本的には「古葉流」を踏襲する。すべてのチームマネジメントにかかわっていく意向のようだ。就任から約2カ月、グラウンドに立ち続ける75歳の情熱はしっかりと学生に伝わっている。

「まず1勝。1勝しなければ、始まらない」

 2020年春。リーグ戦で東大のユニフォームを着るのは54年ぶり。井手監督の目には、神宮の景色はどう映るのか。劇的に変えることよりも、一つひとつを積み上げるタイプ。野球人生の集大成として、自身の持っているすべてを母校へ注入していくという。元プロであるから、周囲は即結果を求めるだろうが、やや長い目で見たほうがいい。現在は基礎、基本の重要性を説いている段階。学生たちも「即効性」を求めるのではなく、この先も続く東大野球部の指導マニュアルを確立することが必要だ。そして、先輩から後輩へ継承する。

 東大出身のプロ経験者で、井手監督ほどのキャリアを積んだ野球人はほかにいない。創部101年目。学生に本物の野球を植えつけることが、井手監督に課せられた使命。部員たちは「生きた教材」から一言一句逃さず聞き取り、メモを取っていかなければならない。聞けば、すでに新主将・笠原健吾(4年・湘南高)の野球ノートはギッシリだという。これこそが、後世に残す財産となるのである。

文=岡本朋祐 写真=BBM