ブライアントの新たな相棒として



近鉄・トレーバー

 1975年にDH制が導入されて以来初の本塁打を放ったパ・リーグの投手は誰だろうか?

 大谷翔平? いや、ドン・シュルジーである。1991年5月29日21時50分、日生球場。近鉄とオリックスの一戦は延長11回裏に突入する。近鉄のクローザー・赤堀元之に対し、右打席に入ったのは身長191センチの背番号42。その巨体から放たれた打球は、象印マホービンのネオン広告が赤く光る左中間の照明塔にぶち当たる超特大の初打席初ホームランとなった。この試合、オリックスは3点リードの9回裏、「五番・DH」石嶺和彦に代え一塁守備固めの飯塚冨司を入れDHを解除していた。同時に“パンチ”こと六番・佐藤和弘に代わって「六番・投手」で登板したシュルジーは乱調で同点に追いつかれ、ドラ1ルーキー・長谷川滋利のプロ初白星が消えてしまう。そこから投げ続け、延長11回の歴史的な自らの一発で勝利投手となった。

 完全なる自作自演じゃねえか……というのは置いといて、そんな球史に残る試合で近鉄の一塁を守っていたのが、ジム・トレーバーだ。この10日前の5月19日、“カネヤン”ことロッテの金田正一監督に乱闘騒ぎで顔面をスパイクで蹴られたあの髭面の助っ人である。ちなみに近鉄のエース・野茂英雄は同年5月9日の日本ハム戦で6試合連続2ケタ奪三振のプロ野球記録を樹立(当時)。「1991年5月の近鉄バファローズ」は平成球史に大きな足跡を残し、おでこにスパイク痕が残ったのがトレーバーだったというわけだ。

 ジム・トレーバーは、90年に前年49本塁打で近鉄V1に貢献したラルフ・ブライアントの新たな相棒として近鉄へ入団した。大リーグのオリオールズ時代は264試合で27本塁打、打率.221。日米野球の際に日本の治安の良さときれいな街並が気に入り、28歳での来日である。トレードマネーは約15万ドル(約2200万円)、年俸は約25万ドル(約3700万円)とお得な助っ人だったが、オープン戦から前評判は高く、『週刊ベースボール』90年4月2日号には「新外国人No.1だ!! ブライアントより上!? 怪力トレーバーの全魅力」という特集が組まれている。

 評論家の皆川睦雄氏は「俗にいうフトコロの深い打者ですね。投球の引きつけが、なによりもいい。だから外角球は左へ。内角は思い切って引っ張ってくる。阪神にいたバースとよく似ているよ」と今も昔も優良助っ人は「バース二世」を期待されてしまうわけだが、佐々木恭介氏も「彼はパワーヒッターであるし、また素晴らしいテクニックも持っている。打率は3割以上はいけるし、ホームランは40本以上は打つだろう。三冠が狙える打者だ」なんて怖いくらいのベタ褒めだ。

近鉄グループをあげてパワープッシュ



バッティングだけでなく、一塁守備も巧みだった

 球団の期待も相当なもので、90年春、近鉄電車内のオープン戦日程付き中吊り広告メーンビジュアルで登場したのは、大物ルーキー・野茂でも、トレンディエース・阿波野秀幸でもなく見慣れない背番号33。なんと親会社の近鉄グループをあげて、トレーバーをパワープッシュしたのである。この抜擢に本人も驚き、「電車内で老人がポスターと目の前にいる自分を見比べているのを見ると、指名手配犯のように小さくなったよ」と喜んだ。

 182センチ、96キロの立派な体格でビールとステーキ好き。行きたい場所はカラオケバー。1年目からスタン・ハンセン級の“ラリアート打法”でいてまえ打線のクリーンアップを託され、打率.303、24本塁打、92打点(150安打はリーグ最多)と結果を残し、日本の生活にも馴染もうと長女のアリーシアちゃんはアメリカンスクールから、大阪市の日本人が通う小学校に転校させたという。翌91年も主砲としてブライアントが故障離脱したチームを牽引すると、オールスター戦にも出場。チャンスに滅法強く、打率.272、29本塁打、92打点であのデストラーデ(西武)とともに打点王を獲得。清原和博らを抑えてパ・リーグ一塁手部門でベストナインとゴールデン・グラブ賞にも輝いた。

 週べ91年9月9日号には人気コーナー「松沼雅之のオト松見参!球Qトーク」で独占インタビューが掲載され、「元西武の投手にインタビューなんか、受けるんじゃなかった」なんてジョークを交えつつ際どい部分まで本音で語っている。来日当初はバントをさせられたり、代打を送られたり、その度にクヨクヨ悩んでいたが、「とにかく日本で成功するには、文化的にも、野球的にも、どんな違いにも考え込まないことが一番の秘訣だ」という心構えに辿り着く。

「日本の監督やコーチの考え方と合わない面があるので、お互いに多少の歩み寄りというのが必要かもしれない。暑い夏に、アップのときまったく走らないでコーチを困らせもしたが、今ではコーチも理解してくれて何も言わなくなってきた」

 そして、DHは大嫌いで日本のファンには、自分が一塁守備という面でも一流選手であるということを知ってほしいと熱心に語るのだ。2年目は11盗塁とぽっちゃり体型のわりに俊敏で、ショートバウンド送球の巧みな処理にも定評があり、学生時代はアメフトプレーヤーの背番号33はダイビングキャッチも得意だった。だから、ロッテ戦での大乱闘劇ではアメフト仕込みのすさまじい突進力を発揮したのか……と思ったら、Amazonプライムの人気番組『プロ野球そこそこ昔ばなし』では当事者の金村義明と初芝清があの試合を懐かしく振り返っていた。

平成球史に刻まれた名前


 秋田市営八橋球場でのロッテ戦で園川一美から右上腕部に食らった死球に激昂して外野まで追いかけ回し、揉みくちゃにされ倒れ込みながらも自分の顔を踏んづけているカネヤンの姿を確認したトレーバーは、一旦ベンチに引き下がってから、グラウンド上の金田監督の姿を発見し「キャネダ〜!」なんつって突進。意気込みすぎて足が空回り前のめりにコケたところを、再度カネヤンキックがおでこを捉える悲劇(退場処分はトレーバーのみ)。翌日のスポーツ新聞一面には「大乱闘 顔面血だらけ」の見出しが踊り、平成球史にその名前は永久に刻まれた。

 トレーバーはこれだけのインパクトと好成績を残しながらも、活躍しすぎて年俸が高騰して条件面が折り合わず、わずか2年で退団。それでも、あれから30年近く経っても年末の『珍プレー好プレー』過去映像特集で、我々はその雄姿を見ることができる。

 平成初期、ジム・トレーバーにドン・シュルジーがいた時代。なお、5月29日の近鉄戦でDH制後初のパ・リーグ投手本塁打を放ったシュルジーは、翌30日の同カードでは延長10回裏にリリーフ登板すると、サヨナラアーチを浴びている。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM