プロ野球では勝ち負けがすべて。攻守走に卓越した選手の最高のプレーを楽しめるのが醍醐味だが、試合に貢献しているのは表層的な技だけではない。激しくしのぎを削っていた決して脚光を浴びることのない特殊技能を持ったプロフェッショナルたちを紹介しよう。

「耳ではなく、目で読み取れ」



南海兼任監督時代の野村

 マウンドに駆け寄った捕手と投手、内野手が、勝負どころでグラブを口に覆いながら会話を交わすシーンが今でもよく見られる。ひと昔前、若い選手が古株選手やコーチ陣に言われたのが、「試合中に話すときには、口元を隠せ」というフレーズ。理由は、大事な決定事項などの内容が対戦チームに筒抜けになるからだ。

「耳ではなく、目で読み取れ」――。

 かつてプロ野球では、読唇術を武器とした時代があった。その走りと言われている球団が、今年2月に惜しまれつつ亡くなった野村克也がプレーイングマネジャーを務めていた時代の南海だ。

 メジャー・リーグのカージナルズやレッズに在籍し、南海のヘッドコーチを務めたドン・ブレイザーの「シンキング・ベースボール(考える野球))」に多大な影響を受けた野村は、運動能力だけではなく、創意工夫を凝らした「無形の力」を信じた。司令塔として重用したのが、特別技能を持つ選手、コーチら。そんな中の一人に、高畠導宏(コーチ時代の登録名は康真、60歳で2004年に死去)がいた。

 落合博満、イチロー、小久保裕紀ら球界を代表する打者の指南役として、知る人ぞ知る打撃コーチのスペシャリスト。左肩故障などで現役時代は実績を残せなかったが、指導者として能力を発揮した。南海、ヤクルトなどで野村の懐刀として活躍。その若き日の高畠が、実は読唇術の達人だったことはあまり知られていない。

 野村に引けを取らないほど頭脳明晰で、ベースとなる野球理論は高レベル。詳細なデータを駆使し、実践する能力にも長けていた。並外れた才能に目を付けた野村は、南海の駆け出しコーチだった高畠に相手の唇の動きから会話を把握する読唇術の習得を指示。野村の「野球は心理戦。駆け引きも勉強したほうがいい」という進言を心に刻んだ高畠は、後年に大学の通信課程で心理学を履修している。野村の呼びかけは高畠だけにとどまらず、当時控え捕手だった柴田猛も読唇術を研究している。「南海は油断できない」。ウワサは他チームにじわじわと伝わった。

精神的に優位に立つ



ダイエーコーチ時代の高畠

 読唇術自体がどれだけ有効だったのか、今となっては分からない。ただ、相手にとっては見えない脅威となったのは間違いない。乱数表をグラブに貼り、バッテリーをはじめ選手がサインのやりとりをするという防止策ができたほどだ。野村は生前、よく「精神的に優位に立てるだけで、勝利に近づくことができる」と語った。バッテリーの動揺は配球を狂わせ、苦し紛れの投球はまんまと打者の餌食となった。

 高畠は野村同様、選手の癖を見極める能力にも長けていた。ビデオを基に、選手の行動パターンやちょっとした仕草から、球種や配球などを予見。確かな打撃理論に加え、プラスアルファの特技で野村野球を支えた。野村とたもとを分かってからも、ダイエーや中日などのコーチを渡り歩き、打撃の神髄を伝導し続けた。

 電子機器を使った「不正行為」として糾弾されたメジャー・リーグのアストロズやレッドソックスの“サイン盗み”とは一線を画す、古き良き時代の技を競い合ったプロ野球。人智を尽くし、食うか食われるかの勝負に挑んだ特殊技能を持つ達人たちがいた。

写真=BBM