歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

プロ野球初の快挙に



1964年、シーズン55本塁打をマークした巨人・王

 1964年は、プロ野球の歴史におけるエポックだった。戦前、戦中のプロ野球は用具が粗悪で、オーバーフェンスの本塁打は奇跡のようなもの。戦後、新チームのセネタース(現在の日本ハム)に“青バット”大下弘が登場、虹にたとえられるほどのアーチを量産したことで、各チームの強打者たちが遠くへ打球を飛ばす研究を始める。2リーグ制となってからも各チームの長距離砲による本塁打の量産体制は変わらず。63年には南海の野村克也が52本塁打を放ってプロ野球記録を更新したが、それも1年で更新される。

 21世紀に入るまでプロ野球記録として残り続けたシーズン55本塁打。これを打ち立てたのが巨人の王貞治だった。ただ、62年から2年連続で本塁打王にはなっているが、63年に40本塁打で大台に乗せたばかりで、ともに“ON砲”を形成した長嶋茂雄が3年ぶりの本塁打王に返り咲く期待も残っていた時期でもある。警戒が必要な打者ではあるが、そこまで打ちまくると思っていたファンは少ないだろう。

 そんな雰囲気が一変したのは、5月3日の阪神戦(後楽園)だろう。王は第1打席から第4打席まで、すべて本塁打。1試合4打席連続本塁打はプロ野球で初めての快挙だった。その後も王は快調に本塁打を量産し続け、1試合に2本塁打を超える“固め打ち”は10試合。しかも終盤にペースアップして、最終的に残った数字が55本塁打だった。言い換えれば、他のチームは、そんな王に対して、なす術がなかったのだ。4打席連続本塁打を許した阪神だけではない。国鉄にとどまらず、セ・リーグのエースともいえるほどの実績を積み上げていた左腕の金田正一はリーグ最多の7本塁打を浴びている。もちろん、ただ手をこまねいていたわけではないだろう。王が一枚も二枚も上手だったともいえる。だからとって、結果だけ見れば、何もしてこなかった、何もできなかった、という批判も免れまい。

 唯一、爪痕を残したのが広島だった。近年の快進撃はおろか、20世紀の黄金時代も強く印象に残る広島だが、50年に創設されてからは常にBクラスに沈み続け、もちろん優勝経験は皆無という弱小チーム。熱心な地元ファンはいたが、広島に何かを期待するプロ野球ファンは多くなかっただろう。そんな広島だが、王への対策はスピード感あふれるものだった。4打席連続本塁打の2日後、5月5日の巨人戦ダブルヘッダー第1試合(後楽園)で、広島の作戦は決行される。

周到な準備、果敢な決行



“王シフト”を敷いた広島

「スピード感」という言葉が、切実さを伴って叫ばれ続け、どこか遠いところで空回りし続けているような2020年。準備を怠れば物事を加速させられるわけもなく、後手に回る、あるいは傍観者に等しくなるのは当然だろう。この試合、広島は王の打席で、左翼方向を大胆に空け、一、二塁間に内野手が3人、遊撃の守備位置に三塁手が入り、バックスクリーン左に左翼手を配置する、右翼方向に偏る布陣。いわゆる“王シフト”の初登場だ。

 広島は周到に準備していた。川本徳三スコアラーが当時のコンピューターに王の打撃データを打ち込む作業には1年もの時間を要したという。逆算すれば、王が初の本塁打王となった62年オフから準備が始まっていたことになる。これで王の打球方向が右方向に偏っていることが判明。想定外だったのは王が2日前に4連発を放ったことだろう。広島は王の5打席連続本塁打を阻止するべく作戦の実行を前倒し。広島ナインも練習したことがなく、ぶっつけ本番だったが、王の5連発を阻止した上に、4打席連続で凡退させることに成功した。

 ただ、王も負けてはおらず、続く第2試合では“王シフト”の頭上を越え、バックスクリーン右に18号を叩き込んでいる。ただ、これに他のチームも追随。それまで打率4割台だった王は、最終的に55本塁打こそ放ったものの、じわじわと打率を下げている。

 この“王シフト”ほど極端ではないものの、打者の傾向によって守備位置を調整することは現在の常識。だが、当時は広島の白石勝巳監督が「いろんな人に相談すると必ず反対する人が出てくる」と警戒した秘策であり、奇策でもあった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM