「家族と一緒に野球をやっているような気分さ」



オリックスのD・J

 カズミ、ミツグ、ヒデカズ、キク、サブロー……。

 これは中学時代のクラスメートのあだ名ではなく、90年代中盤のプロ野球選手名鑑に出てくる選手名である。名字の斉藤、渡辺、山田、大村ではなく、あえて下の名前で登録する。1994年(平成6年)に鈴木一朗が“イチロー”に変身して大活躍したことにより、当時の球界ではカタカナ名前の選手登録がちょっとした流行りに。のちに渋い守備職人イメージが強い久慈照嘉(阪神、中日)まで、人気ロックバンドGLAYのボーカル風に“テル”として1年間プレーするほど、この現象はしばらく球界に定着していくことになる。

 その流れの延長線上にあったのが「D・J」だろう。もちろん、大石大二郎……ではなく、ある新外国人選手の登録名だ。95年に本名ダグ・ジェニングスのイニシャルをNPBで初めてそのまま登録名に採用したのは、やはりイチローとパンチを世に出した仰木彬監督率いるオリックスだった。

 一見、普通に新しいスタジアムDJ(パトリック・ユウ風)にも思えてしまう178センチ、89キロのハンサムマンは、MLB通算5本塁打となかなかメジャー定着できなかったものの、94年は3Aインディアナポリスで打率.296、23本塁打、92打点の好成績。来日の理由をD・Jは、『週刊ベースボール』95年3月13日号のインタビューで「区切りと考えていた30歳になったタイミングでオリックスから話が来たから」と明かしている。

「今から4年前に、ボクの代理人のところに日本の数球団から誘いが来ていたことがあってね。でも、ボクはまだ大リーグで野球をやりたいと思っていたし、30歳までは大リーグに挑戦したかったからそのときは断ったんだ。去年(94年)の9月に誕生日を迎えて、11月にオリックスとの契約書にサインしたんだ」

 大リーグの長期ストライキの影響で、同年にケビン・ミッチェル(ダイエー)やフリオ・フランコ(ロッテ)といった大物外国人選手が続々と来日していたが、D・Jは「去年はマイナーでプレーしていたので、それは関係なかったね」と正直に自身の置かれた立場を語っている。パワーがあるわけでもなければ、守備や脚が武器というわけでもない。左打ちの一塁手兼外野手で自分より若く才能がある選手はいくらでもいる。もう現実的に考えて大リーグでやれるチャンスはないだろう。それがジャパンに行けば年俸5000万円もくれるという。男30歳、夢ではなく、現実を見た助っ人選手はプライドを捨てて日本行きを選択した。

 なお、話題の登録名については、「小さい頃から家族や友達やまわりの人たちにもそう呼ばれていたし、オリックスに来て、みんなもそう呼んでくれるから家族と一緒に野球をやっているような気分さ」と背番号24のD・Jユニフォームを気に入った様子。「西武のダリン・ジャクソンもニックネームはD・Jですがライバル意識は?」なんてなんだかよく分からない質問にも、「彼はD・Jで登録されていないんだろ。だったら特別意識はしないね」と真面目に答えている。

不思議と多い印象的な活躍



「D・J」という登録名は気に入っていたという(左は仰木監督)

 しかし、開幕すると、この男の話題は消える。序盤から打率1割台の絶不調に途中解雇もささやかれたが、幸運なことに当時のオリックスは強かった。この年の1月に阪神・淡路大震災が発生し、ユニフォームの右袖に「がんばろうKOBE」のスローガンを刻み臨んだシーズン。戦力は充実していて、投手陣はエース・野田浩司が4月21日のロッテ戦(千葉マリン)で日本新記録の1試合19奪三振をマーク。抑えには2年目の平井正史が抜擢され獅子奮迅の活躍を見せた。もちろん打線の中心のイチローも健在で、四番にはもうひとりの新外国人選手トロイ・ニールが座り、6月には首位浮上。チーム全体にD・Jのような結果の出ない助っ人を長い目で見る余裕があった。

 悩める背番号24を新井宏昌打撃コーチと中西太ヘッドコーチが徹底的に指導し、日本の野球に合った下半身主導の打撃フォームで変化球にも対応できるようになると、一気にその打棒は爆発する。7月には打率.393のハイアベレージで、12本塁打のニールを抑え月間MVPを獲得すると、8月8日の近鉄戦(ナゴヤ球場)では3打席連続本塁打、翌9日もイチローの先頭打者アーチの直後に三番D・Jが2日にまたがっての4打席連発弾(日本タイ記録)を放つ。この大爆発に、地元愛知が生み出したスーパースター・イチローをひと目見ようと集まった大観衆のスタンドは盛り上がり、ウェーブが巻き起こったほどだ。D・Jは8月も打率.337、8本塁打、29打点で2カ月連続の月間MVPと、オリックス初優勝に大きく貢献する。

 95年と96年にチームは連覇を達成。成績だけ見れば、D・Jの1年目は打率.266、16本塁打。2年目は打率.220、15本塁打と助っ人にしては寂しい数字だが、不思議と印象的な活躍が多かった。95年日本シリーズ第4戦(神宮)ではヤクルトの伊東昭光から延長12回に決勝アーチ。イチローのサヨナラ打でV2を決めた96年9月23日の日本ハム戦、あの平成球史に残る試合で5対6と1点リードされた9回裏二死から、超満員のグリーンスタジアム神戸の右翼席へ起死回生の同点ソロアーチを放ったのはD・Jだった。

阪神へ行きたかったが……



95年日本シリーズ第4戦では延長12回に決勝アーチを放った

 3年目の97年は元近鉄のクリス・ドネルスの加入で4月下旬には二軍生活へ。結局、年間を通してチャンスは与えられず、9月4日のウエスタン・リーグ中日戦に「五番・DH」で先発出場すると、試合終了後には若いチームメートから惜別の胴上げ。翌5日に球団から正式に退団が発表され、10日に帰国。直後の『週刊現代』には「仰木マジックはペテン、イチローは二流選手だ」とD・J怒りの告発インタビューが掲載される。

「結局、仰木監督はベテランから若手に切り替えようとして、失敗したんだ。仰木監督の“気まぐれ起用”の犠牲になっていないのはイチローだけだな」とか、「清原(和博)はメジャーで成功するかって? NO。絶対無理だよ」なんつって怒りのあまり他チームの選手までディスるD・J。97年に二軍落ちした際には、外国人枠に空きがあった阪神(同年5月にグリーンウェルが神のお告げで電撃退団)へ行きたかったが、オリックスが出してくれなかったと愚痴ってみせる。だが、時は流れその18年後には、マイアミ・マーリンズでプレーしていたイチローと再会し、「お互いに“外国人”を経験している」と笑顔でツーショット写真に収まっている。

 わずか3年の在籍で、NPB通算打率.246、32本塁打、110打点だったが、斬新な登録名と爆発力で、記録より記憶に残る異端の助っ人。なお、D・Jはアメリカではマイナー時代も含め5度も優勝を経験、オリックスでも95年と96年に連覇と異様な勝負運を持った、隠れた“優勝請負人”でもあった。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM