歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

ベテランたちの心機一転



1979年、西武1年目のアメリカ・ブラデントンのキャンプにて(左から田淵幸一、野村克也、ウィリー・メイズコーチ(メッツ)、山崎裕之、東尾修)

 1979年、テレビ朝日系で『西部警察』の放映がスタート。半世紀を経た現在も熱狂的なファンを維持している1話完結の刑事ドラマで、数えたわけではないので正確なことは分からないが、ほとんどは逮捕ではなく爆発炎上のラストシーン(という印象)。乗用車を皮切りに煙突やら路面電車やらが木っ端みじんに爆破され、そのカタルシスは団塊の世代を翌日の月曜からの仕事へと背中を押し、体力を持て余し気味の団塊ジュニアを虜にした。のちに子どもも視聴を許されるほど(?)ライトになるが、その初期は“軍団”と称される刑事たちのサングラス率も高く、なかなかコワモテな陣容だった。


工事中の西武球場を見学する西武ナイン(先頭は根本陸夫監督)

 さて、セイブはセイブでも野球の話。だからといって74年に始まったセーブのことではない。『西部警察』のスタートから約1年前。埼玉は所沢に集う男たちがいた。かつて九州は福岡で“野武士”と評された西鉄の遺伝子を引き継ぐべき男たち。本拠地を移転し、新たに西武として生まれ変わることになったライオンズのナインが新たな本拠地を視察している一場面だ。舞台は、かのドラマではたびたび銃撃戦の舞台となった川崎球場ではなく、西武球場。のちの姿からはイメージしづらいほど荒れている。爆破されたのではなく、建設中のためだ。そのときの写真には、根本陸夫監督を筆頭に、鋒矢の陣形を敷く錚々たるメンバーの姿がある。野村克也、田淵幸一、東尾修……。いずれも当時の武骨なスーツ姿だ。この写真を見るたびに、かのドラマもリアルタイムで知る世代としては、同音異義語が瞬時に結びつく脳の加齢もあり、どうしても“根本軍団”に見えてしまうのだ。

 話を本気でプロ野球に戻す。78年こそ5位で終えたものの、77年まで2年連続テールエンドと苦しんでいたライオンズは心機一転。埼玉への移転とともに、全国区の知名度を誇る名選手を次々に獲得する。東尾は生え抜きだが、翌79年は、野村は監督も兼ねていた南海を退団して“生涯一捕手”を掲げ、ロッテを経て移籍してきたプロ26年目であり、かたや阪神の主砲だった田淵は78年11月16日に突如としてトレードを言い渡されて涙を流し、まさに泣く泣く西武で迎える11年目。実績は当時の球界きってだったが、西武の選手として1年目だった。

 心機一転に懸ける思いは、彼らも同様だっただろう。かのドラマに負けず劣らずコワモテのレジェンドたちは、手塚治虫がデザインしたレオも愛くるしいキャップに、“ライオンズ・ブルー”ともいわれた鮮やかな水色のユニフォームを身にまとって、いざ現場(?)へと向かっていった。

どん底に始まる希望の未来


 ただ、歴戦の彼らをもってしても、長く低迷を続けてきたチームを引っ張り上げるのは簡単ではなかった。いや、全盛期を過ぎたベテランたちのチームは“寄せ集め”とも揶揄され、ペナントレースは開幕12連敗でプロ野球記録に並ぶ、どん底のスタートを切る。当時のパ・リーグは前後期制。そのまま前期は最下位、後期は5位に浮上したが、シーズン通算では最下位と、どん底に沈み続けたまま1年目のシーズンを終えた。チーム打率、失策ともにリーグワースト。ただ、そんなバックを背負いながらも16勝を挙げた新人の松沼博久が新人王に輝き、翌シーズンに希望をつないだ。

 ちなみに、近鉄と阪急がパ・リーグの覇権を懸けてプレーオフを戦っている頃に、『西部警察』の放映が始まった。その第1話で犯人から警察に脅迫電話があり、その内容は「後楽園のデーゲームで近鉄を勝たせろ」みたいな内容だったと思う。日本ハムだったかもしれない。ただ、なぜか西武ではなく、少年たちは「せっかくなら西武を勝たせろ!」とブラウン管に総ツッコミを入れた(?)。ともあれ、それくらい勝てないのが1年目の西武だったのだ。

 今日で我慢のゴールデンウィークは終わる。明日からの平日、どん底の船出という人も少なくないだろう。どん底の西武が迎える黄金の未来には今日は触れない。我々も、難しいことを笑い飛ばすような勢いで、黄金時代とはいかないまでも、せめて笑って振り返ることができるくらいの明日であってほしいと願う。

文=犬企画マンホール 写真=BBM