歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

佐賀屈指の右スラッガー?



1972年、西鉄時代の加藤博一

 1969年シーズン閉幕を待たず、九州は福岡に拠点を置く西鉄に立ち込めた“黒い霧”。それは瞬く間に低迷していた西鉄を覆い尽くし、飲み込んでいった。プロ野球の公式戦が反社会勢力によって賭博の対象とされ、それに八百長行為で選手が加担していたとされる事件は西鉄を追いつめていく。そして、50年代に黄金期を謳歌していた“野武士軍団”は、わずか3年で歴史に幕を下ろすことになった。

 一方で、ほぼ時を同じくして、1人の底抜けに明るい若者が西鉄へ入団し、長い現役生活をスタートさせていた。加藤博一。のちの阪神や大洋での韋駄天ぶりや、解説者としての姿を印象に残すファンも多いだろう。だが、このときはまだ、奇しくも“黒い霧”が姿を現した翌日に18歳を迎えたばかりの若者であり、(自称)「佐賀屈指の右スラッガー」だった。自慢は長打力だが、入団はドラフト外で、与えられた背番号は75。西鉄が「シーズン75本塁打を目標にしてほしい」という期待を込めたわけではない。近年こそ大きな背番号で活躍する選手は多いが、当時は「入団してもらって構わないけど、それほどキミには期待していませんよ」という程度の「75」だった。

 もちろん、こうした色メガネは才能の芽を摘んでしまうこともある。才能を秘めながらも評価されず、活躍できないまま引退していった選手も多いことだろう。ただ、このときに限っては、期待どおりの真逆というか期待していないどおりというか、予想どおりとなった。とにかくプロのカーブが打てないのだ。芽が出ないままくさってしまう選手も多いことだろう。ただ、この若者は芽が出ないまでもくさらないのが取り柄だった。

 入団して間もないころ、スケートで遊んでいて骨折。クビになっても当然の失態に一計を案じる。まず、合宿所の階段に水をまいた。そして声をあげて、そこに倒れ込んだ。つまり、合宿所で転んだことに偽装したのだ。ひとまず、このときはクビを回避。だが、特にペナルティーとかではなく、居場所は二軍にしかなかった。そんな若者を見ていたのが稲尾和久監督。だが、注目したのは長打力ではなく、足の速さだった。西鉄の黄金時代を築いた“鉄腕”が監督となって2年目、71年のオフ、稲尾監督はスイッチヒッターへの挑戦を指示する。ただの指示ではない。稲尾監督は「できなきゃクビ」とも付け加えた。唯一の活路とともに突きつけられた最後通告だった。“執行猶予”の日々が始まる。

打席で凡退、盗塁でもアウト


 左打席での猛特訓が始まった。だが、なかなかうまくいかない。巨人の柴田勲ら成功したケースも出始めていたが、まだまだスイッチヒッターは希少だった時代。日常でも左利きの人のように左手を使うようにしてみた。これは少年期、なにもスイッチヒッターを目指していなくても、やってみた人は多いのではないだろうか。ナイフやフォーク、スプーンを使うのは、利き腕ではなくとも難しくない。難関は箸だろう。多くは箸がうまく使えず挫折する。たいした目標がないこともあるだろう。利き腕で早く食べなければ、目の前の食事が冷めてしまう。ただ、死活問題の懸かった目標を抱える若者は、この箸の難関を突破した。「右手にスプーンでカレーライス、左手に箸でラーメンを同時に食べられるようになった」と、のちに加藤は笑いながら振り返る。

 しかしながら、これが一軍での活躍にはつながらず。翌72年に代走として一軍デビュー。打席にも立ったが凡退、盗塁を試みてもアウトに。3試合に出場したものの、これが西鉄、そしてライオンズでの最後の一軍出場となった。その翌73年にチームが太平洋となったことでユニフォームも一新、背番号も75から67となり、ちょっとだけ心機一転。続く74年には背番号35と一気に若返る。ウエスタン首位打者、盗塁王は2年連続と、二軍では活躍したが、一軍は遠い。75年オフには阪神へのトレードが告げられた。

 逆境でも笑顔は忘れてはならない。声を出すのもいいだろう。時間はかかっても、くさらないことだ。この物語の続きは、そう遠くない日に改めて。

文=犬企画マンホール 写真=BBM