歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

誘客のために建設した親会社が撤退



東映の本拠地だった駒沢球場

 この2020年に開催されるはずだった“2度目”の東京オリンピック。開催されるのか、中止になるのか、あるいは延期かと大騒ぎしていたのが遠い昔のことのような気がする。マラソンを札幌で、などと揉めていたのは前世のことのようだ。もちろん、延期が決まってから1カ月と少ししか経っていないのだが、そこから一気に多くの人がオリンピックどころではなくなってしまった。

 そんな状況にあって、延期されたオリンピックに向けて準備を怠らないアスリートたちには声援を贈りたいところだが、その一方で、オリンピックという一大イベントは、いい意味でも悪い意味でも、日常に影響を及ぼすものであることも事実。多くの人が夢と希望を投影させるのと同時に、オリンピックどころかスポーツそのものに興味がない人も一定数いて、つい我々も「日本中が待ち望む」などと表現しがちなのだが、実際のところは、そうでもないのだろう。「日本中が沸いた」ように見える陰で、ただ振り回されるだけの人がいることも忘れてはならないことだ。

“最初の”東京オリンピックが開催されたのは1964年だが、“第2回”では活躍の場があるプロ野球も、64年は“ただ振り回される”側にいた。もともとオリンピックはアマチュアのためのものであり、当時のオリンピックはアマチュアリズムの精神も健在だった。つまり、野球のプロフェッショナルであるプロ野球は、オリンピックとは対照的な位置にいたといえる。もちろん、これは敵対関係を意味しない。プロ野球も協力を惜しまなかったが、そんなオリンピックのために本拠地を失ったのが“駒沢の暴れん坊”東映フライヤーズだった。東映が日本ハムの前身であることと、本拠地の駒沢球場については、日本ハムの初優勝までを追いかけた際に触れたが、その歴史においての東京オリンピックは、なんとも皮肉な存在だ。

 53年に始まったフランチャイズ制についても折々に触れてきたが、その53年、東京にはプロ野球の試合を開催できる球場が後楽園球場しかなかった。現在はヤクルトが本拠地としている神宮球場での試合もあったが、例外的な使用。プロ野球チームが本拠地とするには、とてつもなく高いハードルがある球場だった。東映も、まだ東急フライヤーズだった53年だが、親会社の東急が、自社の沿線への誘客もあって駒沢総合運動場の一角に建設したのが駒沢球場だ。シーズン閉幕も迫った9月21日に竣工。27日に南海とのダブルヘッダーでこけら落としも、オフには球団の経営が東急から東映へ。思えば、その幕開けも皮肉なものだった。

東映が初優勝のときには、すでに……



62年、東映は初優勝を果たしたが……

 チームが東映となり、駒沢球場が初めて開幕から稼働した54年だったが、東映は8チーム中7位。その後もBクラスから浮上できず、駒沢球場では閑古鳥が鳴いていた。諸説あるが、“暴れん坊”の異名が定着したのは58年のこと。順位こそ6チーム中5位だったが、捕手の山本八郎が審判を殴って無期限の出場停止となる一方、エースの土橋正幸が9連続を含むゲーム16奪三振の快挙もあったシーズンだ。特に駒沢での試合に圧倒的な強さを見せ、じわじわとファンも熱を帯びていく。翌59年は3位。処分を解除された山本が2度目の無期限出場停止となり、1年目の張本勲が新人王に。その翌60年は5位。大毎との一戦では走者一掃の振り逃げを食らうなど、あぶなっかしさが不思議な魅力につながるチームだった。

 そんな東映が変貌したのが61年だ。巨人に黄金時代を築いた水原茂監督が就任すると、“暴れん坊”たちに安定感が生まれて、シーズン140試合で83勝。南海の貫禄に阻まれて2位にとどまったが、ようやく初優勝が現実味を帯びてきたシーズンとなった。だが、そのオフ。駒沢球場が東京都からオリンピックのために返還を求められる。やむなく神宮へ移った東映が初のリーグ優勝を決めたのは、駒沢球場が閉鎖された翌62年のことだった。

 駒沢球場の跡地は、現在は駒沢オリンピック公園となっている。オリンピックの会場となったのだから当然の名称なのだが、これも皮肉といえば皮肉だ。

文=犬企画マンホール 写真=BBM