一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。

南海ベンチのドタバタ



この年の球宴で一塁を守った野村克也


 今回は『1971年7月5日号』。定価は100円。
 
 前回の同じ号から。表紙は同じなので、別の写真にした。

「ワシはな、二塁に球が届かなくなったら、きっぱりとマスクもプロテクターも外す。それまでは、このポジションがワシの天職や」
 そう言っていたのは、南海の野村克也兼任監督。のち生涯一捕手を掲げた男らしい言葉だ。

 ただ、この年、にわかに野村のコンバート案が浮上していた。
 理由は35歳の野村自身の肩の衰え。阪急の福本豊をはじめ、パの走り屋たちに盗塁されまくっていた。
 これにはさすがの野村もこたえていたようで、
「江藤とワシとどちらがうまくやれるやろか。ええ勝負やろか」
 ともらした。
 ロッテの江藤慎一は中日に捕手で入団。その後、外野や一塁にコンバートされ、この年は一塁だったが、正直、かなり守備は下手だった。

 一軍定着後の野村のコンバート話が出たのは初めてではない。
最初は、1962年、当時の鶴岡一人監督が、
「南海のスターはなんといってもノムや。それがマスクで顔を隠して、一番高いカネを払って見に来てくれるボックス席のお客はんにお尻を向けている。人気面から考えると、こんな大きなマイナスはないで」
 と言い、オープン戦ではライトや一塁を守らせた。ただ、シーズンでは一塁が4試合、外野が2試合だけ。要は、控え捕手と野村の力の差があり過ぎ、捕手から外せなかったのだ。

 野村自身は実際に一塁コンバートを考えたようだが、不振だった一塁手のジョーンズが、なんと5試合連続ホームランと突然打ち始めたのでやめた。周囲からは、三塁か外野の声もあったようだが、さすがにそこは自信もなかったのだろう。
 記録を見ると、この年、一塁手1回、外野1回のみとなっているが、オールスターでは一塁も守っているので、写真を載せてみた。

 こんな話が出るのは、要はチームの調子が悪いからでもある。
兼任監督1年目の前年は2位で旋風を起こしながら、この年はBクラスにどっぷり。
 6月15日のロッテ戦では試合中にブレイザーコーチと投手のティロットが試合中なのに大喧嘩する騒ぎがあった。
 理由は些細なことだった。

 ティロットがロッテ打線に無死から4連打を食らった際、ブレイザーコーチがマウンドに行き、「このボールを醍醐にやれ」と言った。実は、前の打者、ロッテ・醍醐猛夫が、そのヒットで通算1000安打となったのだ。
 しかし頭に血がのぼっていたティロットはブレイザーの説明をすべて聞く前に、
「いやだ。このボールは投げやすいんだ。変えたくない」
 と言い張り、「1000本目なんだ」と言っても聞かなかったので、結局、ブレイザーはそのボールを強引に奪い取った。
 その後、交代となったティロットはベンチに戻ると、ブレイザーにつかみかからんばかりの勢いでまくし立て、周囲のコーチが必死で止め、やっと収まった。

 あとでティロットは「1000本目という意味が分からなかった。分かっていたら、すぐ渡した」と神妙な顔をし、ブレイザーにも謝罪したようだ。

 では、またあした。

<次回に続く>

写真=BBM