歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

東西対抗を開催



巨人・千葉茂

 プロ野球にとっても前例のないシーズンとなった2020年。オールスターの中止が発表された。準備の問題もさることながら、感染症の終息も見えない現状、ナインや関係者、そして観客の安全、つまり生命を最優先に考えれば、是非もないだろう。どんなに残念なことであれ、最悪の事態を想定して、安全、特に人命を最優先に導きだされた苦渋の決断は、やはり英断といえる。この10年、想定外で多くの命が失われ、生活が破壊された。似た過ちも繰り返されつつあるが、それが許されないことであることを忘れてはならない。何事も、命あっての物種だ。

 第1回のオールスターが開催されたのは2リーグ制となって2年目、1951年のことだった。セ・リーグとパ・リーグが対戦するのだから、2リーグ制であることは必要条件だろう。ただ、それ以前の1リーグ時代にも、構造や名称こそ異なるものの、プロ野球を引っ張る名選手たちが東西に分かれて一堂に会する、東西対抗戦が行われていた。戦争でプロ野球が中止に追い込まれ、終戦とともに復活へ突き進んだ経緯を紹介した際にも触れたが、その復活の号砲となったのも、その東西対抗戦だった。重複になるが、その経緯も振り返ってみる。

 終戦が45年8月15日。約2カ月後の10月23日には大阪で4球団が会合を開催。今なら遠隔地でもオンタイムで容易につながることができるが、交通インフラすら満足ではなかった当時、この行動力をともなったスピード感には見習うべきものが多いだろう。9月16日に神宮球場はGHQに接収されていたが、このハードルも当時の関係者は突破。第1戦の雨天ばかりは避けられなかったが、11月23日、その神宮球場で、復活したプロ野球の“第1戦”が挙行されている。翌24日には群馬県の新川球場で、舞台を関西へと移して12月1日と2日には西宮球場で、計4試合が開催された。

 この東西対抗に参加したのは巨人、阪神、名古屋(現在の中日)、阪急(同オリックス)、近畿日本(南海。のちダイエー、現在のソフトバンク)、朝日(のち松竹。大洋と合併し、現在はDeNA)、そして新球団のセネタース(現在の日本ハム)の8チーム。巨人からは千葉茂、阪神からは藤村富美男、近畿日本からは鶴岡一人ら、みな戦争を生き延び、ガリガリに痩せた体ながら、ふたたび野球をできる喜びで目を輝かせて集まってきていた。1リーグ時代から活躍し、戦後のプロ野球も引っ張っていく男たちだ。

大下のアーチに人々は希望を乗せて



セネタース・大下弘

 この東西対抗で一躍、注目を集めた新人が、セネタースの大下弘だった。セネタースについては、この連載で日本ハムを紹介した最多にも触れている。大下は11月23日の神宮球場で6打数3安打5打点、そのうち外野フェンスにまで飛んだ三塁打は、それまでの野球の試合で見たこともない打球だった。これを超える6打点をマークした12月1日の西宮球場では4打数3安打、1本塁打。4試合を通じて表彰されるホームラン賞、殊勲賞、最優秀選手賞、このすべて獲得した。

 迎えた46年、プロ野球のペナントレースが再開。大下は20本塁打を放った。目立つ数字には思えないかもしれない。ただ、まだオーバーフェンスが珍しく、44年は3本塁打で本塁打王だったような時代だ。単純な比較はできないが、2019年の本塁打王は両リーグともに43本塁打だから、その2年後にシーズン200本塁打、そのすべてを場外へと運んでいく男が登場することを想像してもらえれば、大下がもたらした衝撃に近づけるだろう。その衝撃は、食べることもままならなかった人々を球場へと呼び寄せ、それは歴戦の強打者たちをも刺激、空前のホームラン・ブームが巻き起こり、さらに多くの人々が球場へと足を運ぶようになる。

 手元の資料には、その46年には福岡の地方紙だった夕刊フクニチで『サザエさん』の連載が始まった、とある。手前味噌のようだが、4月に2円50銭で『ベースボールマガジン』も創刊。人々のたくましさが伝わってくる。焦土から懸命に復興を遂げ、現在に至るニッポン。当時のオールスター、東西対抗戦は、その復活の号砲でもあったのかもしれない。

文=犬企画マンホール 写真=BBM