歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

悪化していく肩痛



横浜監督時代の権藤

 1961年のセ・リーグに颯爽と登場し、登板、投球回、完投、完封、無四球完投に被安打、奪三振はリーグ最多、35勝、防御率1.70も最多勝、最優秀防御率という右腕がいた。中日の権藤博。98年に横浜、現在のDeNAを38年ぶり、チームが横浜へ移転し、ベイスターズとなって初の優勝、日本一へと導いた監督としての印象も新しい。20世紀を知らない若いファンなら、中日のコーチとして人目もはばからず監督とバトルを繰り広げた姿になるのだろうか。80年代の近鉄コーチ時代を知るファンにとっては、どこか懐かしい姿だったかもしれない。選手に「権藤さん」と呼ばせる監督も、これほどまでに監督と衝突するコーチも、どちらも珍しい。誰にも似ていない名伯楽の現役時代は誰もマネできない、いや、マネしてはいけないものだったのかもしれない。

 母子家庭で育ち、少年期から稼いで母を楽にさせたいという思いが強かった。巨人ファンで、入団も決まりかけていたが、中日の監督に就任する濃人貴実コーチに「どうせなら好きな巨人を倒してみないか。あの強力打線を相手に投げて勝ちたいと思わないか」と言われたことで61年に中日へ。すでに個性は完成されていたようにも思える。1年目は冒頭の活躍で新人王に沢村賞。雨でもなければ中日のマウンドで投げている印象から「権藤、権藤、雨、権藤」も流行語になっている。だが、中日は白星で巨人を上回りながらも優勝を逃した。連投に次ぐ連投は報われなかったのだ。達成感のようなものはあったというが、達成感しか残らなかったといえるのかもしれない。

 翌62年は早くも肩痛に苦しむようになる。それでも、「肩痛でも休むと投げられる。打者を見るとムキになって投げてしまうんですよね」(権藤)と、61試合の登板で30勝。2年連続で最多勝に輝いたが、当然、肩痛は悪化していった。続く63年には45試合の登板で、それでも規定投球回に到達して10勝。その翌64年は6勝に終わったが、26試合に登板して100イニング以上を投げている。心は燃えていたのだろう。ただ、体は限界だった。転機になったのは、シーズン途中に西沢道夫が指揮を執るようになったことだ。42年、延長28回の激闘については紹介したが、この試合で名古屋(中日)のマウンドを投げ抜いたのが西沢だった。

フィナーレは投手として



中日時代の権藤

 西沢は15歳でテストを受けてプロ野球が始まった36年に入団。さすがに1年目は養成選手として練習の手伝いをしただけだったが、2年目には選手に登録されて、史上最年少の16歳と4日で初登板を果たした。だが、20勝でブレークした40年からヒジ痛が慢性化し、兵役で肩も故障。復帰して打者に転向している。そして成功。52年には首位打者と打点王の打撃2冠もあった。そんな西沢は、故障に苦しむ右腕に打者への転向を勧める。寡黙でナイーブな監督と、不屈の魂を持て余したような右腕の双曲線が交わった。

 迎えた65年。早咲きのあまり散りかけていた右腕は、1人の内野手として新たなスタートを切った。ただ、打撃も守備もプロ入り当時から評価されていたものの、なかなか西沢のようにはいかず、打率.199と低迷する。当然、控えに甘んじる日々が続いた。それでも、67年には107試合に出場して、リーグ最多の26犠打をマーク。打者としては遅咲きの花を咲かせようとしているかのようにも見えた。

 だが、やはり権藤博は権藤博だったのかもしれない。翌68年には投手に復帰。打者として成功する可能性もあっただろうが、その道は選ばなかった。球威は戻らず、9試合に登板して1勝1敗。そして69年、ついに登板なく終わり、現役を引退した。わずか9年、通算82勝。雨上がりの空は晴れ渡っているものだが、その1年目、雨こそが休息のチャンスだった右腕にとって、その“雨上がり”は厳しいものだった。一方で、「雨降って地固まる」ともいう。この長かった“選手晩年”が、指導者としての肚を作ったことは間違いないだろう。「選手を向いて仕事をする」(権藤)姿勢には毀誉褒貶も多いが、それ以上に評価する声も多い。

文=犬企画マンホール 写真=BBM