歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

“怪物”vs.遅咲きの“千両役者”



阪神・加藤博一

 連載が始まって半世紀を経た2020年の現在でも根強い人気がある漫画『あしたのジョー』。当時の人気は世相とも呼応して社会現象のようになり、そのラストシーンは語り草になっている。最後に主人公が発したセリフも印象的だが、それを意識したのかどうかは定かではないものの、1980年のペナントレースを振り返って「灰になった」と言って笑ったのが、阪神の加藤博一だった。

 ドラフト外で西鉄へ入団してスイッチヒッターに挑戦したものの、決して層が厚いとはいえないチームが太平洋となっても芽が出ないまま、75年オフに阪神へトレードで移籍したことは紹介している。背番号は75から67、35と若返ってきていたが、6年で一軍出場が3試合のみというスイッチヒッターが新天地で与えられたのは32。わずかに若くはなったが、それほど変わり映えはしない。それでも移籍1年目の76年は、なんとか1試合に出場。翌77年には7試合に出場して、一軍での初安打を含む2安打、同じく初盗塁もマークした。だが、定位置は二軍。太平洋でもウエスタンの首位打者となっていたが、阪神では2年連続で盗塁王に。ただ、二軍のタイトルホルダーであることは、一軍に居場所がないことを意味していた。

 これも重複になるが、この若者の取り柄は、くさらないこと。ましてや、その数年で始まった逆境でもない。いい風が吹かなければ、帆をたたんで風を待てばいいのだ。ただし、そのときのために準備は怠ってはならない。そして78年、じわじわと風向きが変わり始める。初の2ケタ出場(?)となる31試合で6安打を放ち、初打点もマーク。塁上にいれば、貪欲に次の塁も狙った。盗塁は3度の失敗も、3度の成功。足をアピールすることも忘れてはいなかった。


79年7月28日の巨人戦(甲子園)で江川からプロ初本塁打を放った

 翌79年。追い風は一気に強くなる。ドラフトを根底から覆すような騒動を経て巨人への入団を果たした“怪物”江川卓が登場。才能あふれるルーキーから、プロ10年目の苦労人はプロ初本塁打を放つ。プロ入りの経緯でアンチを増やしたスターからの遅咲きの初本塁打に、阪神ファンだけでなく、判官びいきのファンまでが快哉を叫んだ。ひょうきんなキャラクターも浸透していく。西鉄や太平洋では血の気の多いファンに囲まれていた。だが、お笑いがどこよりも盛んな土地へ移ったことも、この男にとってはプラスに働いたのかもしれない。舞台は完璧に整った。

オフの落とし穴


 迎えた80年、ついに中堅手として定位置をつかむ。打順は真弓明信に続く二番がメーン。のちには犠打でも結果を残すことになるが、この80年は、いわゆる“バントの少ない二番打者”だった。初めて規定打席にも到達。打率.314はリーグ5位で、自己最多の7本塁打、34盗塁で盗塁王も争った。“江川キラー”ぶりも健在で、江川に対しては2本塁打、打率.393。そして、「灰になった」(加藤)。ただ、『あしたのジョー』の主人公とは、いささか雰囲気が異なる。キャラクターの違いではない。そのオフ、まるでオチをつけるかのように、落とし穴にはまった。

 テレビに出れば、地元の芸人にも負けん気を発揮(?)。笑いのとれるプロ野球選手という“逸材”をテレビが放っておくはずがない。一流プロ野球選手がやっているように、ゴルフも楽しんだ。ほかのことをやっていれば、野球に割く時間が減るのは当然のこと。準備不足のまま、翌81年シーズンに突入していく。そして故障で急失速。まっ白な灰が逆風を真に受けて、跡形もなく吹き飛んでいった。出場は57試合と半減して打率.222。走っても14盗塁と激減した。人気もキャラクターも健在だったが、その後も低迷は深まっていく。

 続く82年は60試合の出場ながら、打席数は前年の半分にも届かず。チャンスが減れば、ますます結果は出ない。打率.165と当たらず、オフにベテラン右腕の野村収とのトレードで大洋へ移籍することになる。ただ、このトレードは両チームにとってだけでなく、2人の選手にとっても成功だった。この物語の続きも、阪神への移籍となった野村についても、さらに機会を改めて。

文=犬企画マンホール 写真=BBM