メジャーで4度の首位打者



ロッテ・有藤監督(左)とマドロック

「ユー、スポーツカーね。メルセデスAMGよ。ナイスカーね」

 元巨人のウォーレン・クロマティが開設した自身のYouTubeチャンネルで、現役時代のチームメート篠塚和典と80年代中盤の思い出話をしていた。クロウが来日したのは巨人の球団創立50周年で王貞治が監督就任した1984年(昭和59年)のことだが、元メジャー・リーガーは、後楽園球場の駐車場に停まっているのが高級車ばかりで驚いたという。

 85年のプラザ合意後に日本は未曾有の好景気に突入していくことになるが、プロ野球界でも87年にボブ・ホーナーが年俸3億円でヤクルトへ入団。93試合で31本塁打と“ホーナー旋風”を巻き起こし、88年オフにはなんとあのメジャー通算5714奪三振のノーラン・ライアンが、年俸2億4400万円で新興球団のオリックスに本気で売り込んでくるという事件もあった。そんな当時の世相と球界を象徴する外国人選手が、昭和最後のシーズンとなった1988年(昭和63年)にロッテオリオンズへ入団したビル・マドロックである。本連載では平成助っ人を取り上げてきたが、今回は昭和から平成への時代の変わり目に球史をつないだ超大物を紹介しよう。

 75、76年にカブスで、81、83年はパイレーツで首位打者に計4度も輝いた名打者は、87年5月にドジャースを放出され、タイガースへ移籍。計108試合で打率.264、17本塁打、57打点という成績だったが、同年夏の『週刊ベースボール』特派員リポートで「元・首位打者マドロックが日本に行くぞといいだした」という記事が掲載されている。

「まだはっきり決まったわけじゃないけど、シーズンオフの契約がまとまらなかったら、たぶん日本へ行くことになるだろう。オレの代理人が日本のパシフィック・リーグの球団とコンタクトをとっているところだ」

 この発言は現地のプレス席でも話題となり、「マドロックはデトロイトを気に入っているはずだぜ。ヤツは面白半分でそんなことをいったのさ。日本に行くなんてことは絶対ない、と思うよ」と記者は主力打者の日本行きを一蹴したが、一方でメジャー生活15年のベテランは守備や走塁面が衰え、ほぼDH専門の36歳には大リーグで好条件の契約は難しいという声も聞かれた。実際、その数カ月後にマドロックは日本のロッテオリオンズ入りを決断するのである。年俸は前年のサラリーを約20万ドルも上回る約1億3650万円。この金額はロッテ球団史上最高年俸で、当時日本人最高額の落合博満(86年オフにロッテから中日へ移籍)の1億3000万円とほぼ同額だった。11年間在籍のレロン・リーを解雇してまで獲得したマドロックは、“ポスト落合”を期待されていたのである。

 クローズドスタンスで、クラウチング。内外角、身長180センチの胸の高さからヒザの上くらいまで、どこへ投げてもヒットにしてしまう技術は、日本の投手の変化球攻めにもノープロブレムの右の安打製造機だが、もちろん不安もあった。“マッド・ドッグ(狂犬)”と呼ばれる男は、激しいスライディングで多くの選手にケガをさせる問題を起こしてきた。さらに大リーグでも有数の扱いにくい“ハード・ノーズド・プレーヤー(強情な選手)”としても知られていたのだ。

完全なホームシックに



期待は高かったが日本では本領発揮といかなかった

 大リーグ通算2008安打、打率.305、163本塁打、860打点、174盗塁。マスコミは前年のホーナー旋風再びと「優勝請負人にして史上最強の助っ人マドロック」なんて盛り上がり、88年2月5日のロッテ入団会見の席上では、背番号5のユニフォーム姿を披露。79年ワールド・シリーズ優勝のチャンピオンリングを誇らしげに掲げ、「昨年、ホーナーが日本で活躍したが、彼のチームは優勝できなかった。自分はチームの勝利に重点を置く」と前年リーグ5位からのV宣言に加え、期待どおりいきなりホーナーに噛みつくマッド・ドッグ。その闘志はキャンプ地の有藤通世監督を喜ばせ、人気ファミコンソフト『燃えろ!!プロ野球'88 決定版』には打率.332、33本塁打のゲーム屈指の強打者“まどく”として登場した。

 周囲の加熱ぶりに加え、「打率4割を狙ってみる」「川崎球場だけで25本塁打は軽いぜ」「今年は20盗塁を決める」なんつって止まらないビッグマウス。この超大物を迎えるにあたり、球団はなんと老朽化の進んでいた本拠地・川崎球場に個室のロッカールームを準備する。16平方メートルの室内は壁も天井もホワイトに塗り変え、テーブルとイス、洗面台、冷暖房&除湿機完備、テレビ、冷蔵庫付きのVIPルームの総工費はおよそ300万円也。通常の選手用ロッカーにはドアを開ければ通じていたが、その広さは日本人選手8〜10人分のスペースだった。当初の改装予算は1000万円というのにバブル景気を感じるが、まさにロッテ企業挙げてのマドロック・プロジェクトである。

 しかし、だ。ひとつだけ大きな不安要素があった。『週刊ベースボール』88年3月14日号にマドロックの独占インタビューが掲載されているが、「ホーナーの上を行く貢献をしたい」なんて威勢のいいマッド・ドッグが、日本での単身赴任生活を聞かれると意外な反応を見せる。

「それが一番つらいんだ(急に、涙を浮かべて沈黙)。……ただ、子供の教育の問題や家のこともある。家族とは一緒に住みたいが、野球をするうえで、耐えなきゃいけないこともある」

「私にとって、日本で一番やさしいことは、グラウンドで試合をすることなんだ。ただ、一番気になるのは、グラウンド以外の生活にいかに適応するか、孤独をいかに克服するかなんだ」

「どんな投手がこようとも打つ自信はあるんだ。何度もいうようだけど、グラウンドを離れたときなんだ。アメリカでは、すばらしいロッカールームがあって、カーペットがしいてあって、テレビ、ステレオ、サウナまである。野球道具にしても、私は自分で持ち運びする必要がなかった」
 
 そう、マドロックは野球以前に完全なホームシックにかかっていたのである。37歳、男のひとり暮らしは孤独だった。オープン戦は打率.192と低迷。開幕後も打率2割台前半と低空飛行が続き、無安打の翌日には試合前の打撃練習をパス、全体練習もボイコットしてしまう。日本の審判への批判をまくしたて、元メジャー・リーガーのプライドが邪魔をしてチームメートともうまく付き合えない。当然、特別待遇であの成績かと周囲の不満はたまっていく。クロマティはロバート・ホワイティングとの共著『さらばサムライ野球』(講談社)にこう書いた。

「マドロックは日本に恐怖感を抱いている。試合が終わるとマンションに直行し、コックにステーキを焼かせて食べ、ビデオのスイッチを入れて一晩中映画を観ている。たいていテレビの前でうたた寝をしてしまう。二割三分しか打てなければ、辛さもひとしおだろう」

1年限りで日本を去る



ロッテの本拠地・川崎球場の前での1枚

 家ではビデオ、球場では試合中にVIPルームでテレビゲーム。なんだその偉そうなヒゲ……という負のスパイラル。サザエさんの主題歌をアレンジした応援歌は人気だったが、「日本の応援はうるさくてかなわん」なんて綿を両耳に突っ込んで打席に立つこともあった。前半戦終了時、打率.243、8本塁打、28打点。有藤監督は「一発はともかく、“三振少ない”、“チャンスに強い”に期待したが……。好機に打てず誰よりも自分が恥じてるはずだ!」なんつってブチギレ、夏場にチームが最下位に沈むと「やっぱり四番の問題じゃないの……これではどうしようもない」と怒りを通り越し、あきらめにも近いコメントを残している(異国の地のボスとして、もう少しフォローしてあげればと思わなくもないが……)。

 珍しくマドロックが明るい表情を見せたのは、NHKの『大リーグアワー』にゲストコメンテーターとして出演した際にアメリカ時代の思い出を語ったときだった。結局、孤独な元メジャー・リーガーは終盤に多少盛り返したものの123試合、打率.263、19本塁打、61打点、4盗塁という期待外れの成績で1年限りで日本を去った。

 なお、昭和プロ野球の大トリを飾る1988年10月19日川崎球場の名勝負、近鉄とロッテの「10.19」ダブルヘッダーにおいて、マドロックは2試合ともロッテの「五番・DH」で先発出場。第2戦で先制の17号ソロアーチを左翼席にかっ飛ばしている。こうして、金と幻想のマドロック狂騒曲を経て、球界は平成という新時代へ突入していくのである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM