歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

王の後を受けて再登板



巨人・藤田監督

 巨人の、いやプロ野球きってのスターだった長嶋茂雄の後を受けて巨人の監督に就任し、長嶋と“ON砲”を形成して通算868本塁打を残した王貞治にバトンを託して退任した藤田元司監督が、ふたたび監督として“再登板”したのが1989年のことだった。長嶋に続いて王も事実上の解任で、王にとっては巨人でのラストシーンとなってしまうのだが、ふたたびファンが騒然となっていく中で、やはり藤田は手腕を発揮してく。第1期のような王助監督、牧野茂ヘッドコーチの“トロイカ体制”もなく、“先発三本柱”の江川卓、定岡正二は引退、西本聖は中日へ移籍。ファンの反発は前回ほどではなかったが、状況は前回より厳しいものにも見えた。

 ただ、救いとなったのが新戦力。投手の先発完投を重視する方針を強く打ち出したことで、王監督の継投策を支えてきたリリーバーの鹿取義隆らは働き場所を失ってしまったが、特に第1期にサイドスローへ転向させた斎藤雅樹は真価を発揮、4年目を迎えた桑田真澄の成長も著しく、槙原寛己とともに“新・先発三本柱”を形成する。槙原は後半戦こそ故障で離脱したが、前半戦は絶好調で12勝。斎藤は11連続完投勝利のプロ野球新記録を含む20勝、防御率1.62で最多勝、最優秀防御率の投手2冠に。桑田も自己最多の17勝で続いた。

 打線では王監督1年目に入団したクロマティが打率4割を超えたままシーズン規定打席に到達する別格の安定感。最終的には打率.378にとどまったものの、首位打者、MVPに。巨人は広島の追い上げをかわしてリーグ優勝。初の顔合わせとなった近鉄との日本シリーズでは3連敗から逆襲を仕掛けて4連勝で日本一に。またしても藤田監督は就任1年目にして巨人を日本一へと導いた。

 同じ投手の出身で、闘志あふれる若き指揮官として鳴らした中日の星野仙一監督は、「藤田さんは怒らせることを全然しない。だから逆にやりにくい」と語っていた。闘将の闘志にエネルギーを与えない、その独特の雰囲気は、まさに“球界の紳士”だった。選手のミスで敗れても、その名を取材で口にすることはない。一方、勝てば次々に選手の名前を挙げて、コーチ陣をたたえた。翌90年にリーグ連覇も、2年連続で優勝を逃した92年オフに退任。かつてバトンを受けた長嶋に、あらためてバトンを返した形となった。

V9元年は登板がなく……



現役時代の藤田

 通算7年の在任でリーグ優勝4度、日本一2度。初めて監督に就任した際、監督としてV9を率いた川上哲治が「人のために死ねる男」と推薦したことは紹介したが、プロ野球の歴史に燦然と輝く“ON”に挟まれたことで、その陰になってしまった印象もある。こうした役回りは現役時代も同様だった。監督として老成した姿からは想像しにくいが、若いころは口よりも先に手が出るタイプで、武勇伝は数えきれず、紳士というよりは豪傑。学生時代はケンカ三昧の日々だった。

 慶大では4年で31勝も、優勝は登板がなかった1年の秋のみで、“悲運のエース”と評された。巨人では背番号21を与えられ、1年目の57年から自己最多の60試合に登板して17勝で新人王。ただ、完投は4試合のみで、ベテランに勝ち星をつけるためのリリーフも多かった。背番号18に変更した翌58年から2年連続でリーグ最多の24完投。58年は自己最多の29勝、59年は27勝で最多勝に輝き、2年連続でMVPに。だが、“悲運”は続いていた。

 58年の日本シリーズでは西鉄で“神様、仏様、稲尾様”と言われた稲尾和久と同じ6試合に登板、稲尾を凌ぐ防御率1.09の安定感も1勝2敗、巨人も3勝4敗で日本一に届かず。59年の日本シリーズも南海で4連投4連勝の杉浦忠に注目が集まり、肩痛を抱えながら3試合に登板したものの、ふたたび“悲運のエース”と呼ばれるように。肩痛は悪化し、その後は勝ち星を減らしたが、それでも64年まで100イニング以上には投げている。V9始まった65年は登板がなく、そのまま引退した。

“悲運”とたたえられたのは、敗れた姿が美しかったことの傍証でもある。1試合の登板で3キロ痩せたという全力投球。そのフォームの美しさでも知られていた。

文=犬企画マンホール 写真=BBM