歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

ボロボロのミットでプロ入り



中日・中村武志

 20世紀の昔、体罰は教育における日常だった。校内暴力は社会問題になっていたが、教師の体罰も、親から子への家庭内暴力も、あまりにもありふれた光景であり、一部では問題視されていたかもしれないが、少なくとも筆者の少年時代には、そんな声を聞いた覚えがない。教師の体罰があれば、保護者のほうが教師に謝罪する、などということもあった。21世紀に生まれた若い人から見れば狂気の沙汰かもしれない。そんな世の中だったという事実が残るのみだ。

 もちろん、時代が違うということで暴力が肯定されるわけではない。ただ、生徒たちの間に体罰を受けたことを誇らしげに吹聴するような空気があったのも事実。そうでもしなければやっていられない面もあっただろうが、つくづく妙な時代だった。これはプロ野球の指導も同様。口より先に手が出る指導者もいたし、殴られたことが武勇伝のようになる選手もいた。

 口よりも先にというより、口も出るが手も出るタイプだったのが中日の星野仙一監督。初めて監督に就任したのが1987年で、40歳の若き指揮官だった。そんな星野監督に誰よりも殴られたというのが捕手の中村武志。あるときにはコーチが「これ以上やったら死にます!」と止めに入ったこともあったというが、実際、暴力的な指導が日常だった時代を生きてきて、その経験値も豊富な(?)星野監督が殴って死なせるようなことに至ったとも思えない。ただ、見方を変えれば、そんな指導を受けながらも敢然と食らいついていった中村のほうが1枚も2枚も上手だったのかもしれない。

 その不屈の魂は筋金入りだ。花園高での3年間は「トレーニングのひとつだと思っていました」(中村)と、新聞配達をしながら野球に打ち込んだ。近年は少なくなっているのかもしれないが、新聞配達で学費を稼いでいる苦学生も少なくなかった時代だ。バットやミットも、そのアルバイトで稼いで買った。甲子園の出場もなく、無名の存在だったが、司令塔の中尾孝義に肩の不安があったこともあり、中日にドラフト1位で指名されて85年に入団。持っていたミットはボロボロで、見かねたコーチが新しいミットを買ってくれた。

 会見では「中尾さんを目標に頑張ります。お世話になった皆さんに絶対、恩返しします」と抱負を語った中村だが、一軍での出番がないまま、翌86年オフには早くも戦力外の候補に挙がる。ほぼ時を同じくして就任したのが星野監督。幸か不幸か(?)、これが中村にとって運命の分岐点となった。

投手陣の絶対的な信頼


 遠投120メートルの強肩。その凄まじい送球を受けた遊撃の宇野勝は「手が腫れる」と悲鳴を上げた。もちろん、星野監督の鉄拳制裁がなくても中村は台頭したかもしれない。その逆も然り。いずれも歴史の“if”だ。星野監督は「あれだけ練習させた選手はいなかった」と中村について振り返り、その中村も必死で猛練習に応えた。形は前時代の遺物だが、情熱と情熱がぶつかりあったことだけは間違いないだろう。

 迎えた87年に一軍デビューを果たした中村は、翌88年6月から司令塔の座に着いて、中日も7月から快進撃を続け、リーグ優勝。これが星野監督にとって初めての美酒だった。その星野監督は91年オフに退任したが、中村は不動の司令塔として中日を支え続ける。

 星野監督は96年に復帰。すでに中村は攻守の要となっていた。星野監督2度目のリーグ優勝となった99年も司令塔として貢献。MVPに輝いた野口茂樹がヒーローインタビューで決まって「すべて中村さんのおかげです」と言っていたのも印象に残る。巧みなリードや技術もさることながら、言い訳をすることなく、常に責任を負う男気で投手陣から深く信頼されたことも大きかった。21世紀に入って星野監督が退任すると、チームが谷繁元信を獲得したことに不信感を募らせ、チャンスを求めて横浜へ移籍した。

 鉄拳制裁を原動力に出世する選手は、よほど時代が逆行しない限り、この中村が最後ではないか。もちろん、あの時代に戻りたくはないのだが。

文=犬企画マンホール 写真=BBM