歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

MVPを置き土産に



巨人の監督として1951年から3連覇、55年から5連覇を飾った水原

 プロ野球の公式戦が始まったのが1936年。1年目の最後を締めくくったのは巨人とタイガース(阪神)の年度優勝決定戦で、2勝1敗で巨人が頂点に立ったのは12月11日のことだった。地球温暖化などという言葉すら存在しなかった時代。舞台は当時の東京市城東区南砂町に完成して間もない洲崎球場で、海に近かったために海風が強く吹き、満潮になるとグラウンドが浸水、晴れた日が続けば海風で砂ぼこりが舞う過酷な環境で、第1戦のあった12月9日の気温は2度ほどだったという。

 だが、試合は熱かった。辛口で知られた評論家の大井廣介は「この3連戦が、もしこのようにハリつめたものではなかったら、プロ野球はつまづいていたかもしれない」と語っている。つまり、この熱戦によって、プロ野球は順調に滑り出したのだ。その後も着実にファンを獲得していったプロ野球だが、10年と続けることはできなかった。戦争だ。プロ野球が休止に追い込まれただけではない。多くの選手が若い命を奪われた。

 終戦から約3カ月後、プロ野球が東西対抗戦で復活したことは紹介している。だが、その後も戦争が残した苦境に置かれ続けた人々は少なくなかった。大陸で終戦を迎え、シベリアに抑留された人々は苦難を極めたという。その中の1人が、巨人の創設に加わった水原茂だった。

 水原の名前は、この連載でも監督として何度か登場している。高松商では投手と三塁手を兼ねて、夏の甲子園を2度も制し、慶大では優勝5度。31年の日米野球でもメンバーに選出されるなど、野球界ではエリート中のエリートだった。だが、33年の秋、早慶戦で客席から投げ込まれたリンゴの食べカスを投げ返し、これが両チームの応援団による乱闘に発展した、いわゆる”リンゴ事件”のキッカケを作ってしまう。

 その後は賭博で検挙されて野球部を除名になり、慶大を卒業すると奉天実業団へ転じたが、34年の日米野球に参加するために退社して、そのまま大日本東京野球倶楽部、のちの巨人に入団した。ただ、首脳陣と衝突して第2次アメリカ遠征の後に退団。復帰したのはプロ野球1年目、36年の秋だった。主に三塁手としてプレーしたが、2シーズン制ラストイヤーの38年は投手としても登板、秋には11試合で8勝、リーグ2位の防御率1.79を残している。

 数字には残らない功績は、そのリーダーシップだ。当時から、いずれは水原が監督になるという雰囲気が巨人にはあったという。42年には無冠ながらMVPに輝いたが、その表彰を受け取ったのはユニフォーム姿の長男。9月1日に赤紙が届いた水原の姿は、11日には丸亀の歩兵隊12連隊にあった。そのまま大陸へ。戦後、シベリアでの抑留は4年あまりも続いた。

プロ野球きってのイタズラ名人?


 水原の帰国は49年。ナホトカからの船上、プロ野球の試合で甲子園球場が満員になったと聞いて、「戦前は3000人がせいぜい。甲子園が満員になるとは信じられなかった」という。水原が後楽園球場に“帰還”し、「水原茂、ただいま帰ってまいりました」と挨拶すると、万雷の拍手に包まれる。

 このとき花束を渡したのが昭和を通じて長いライバル物語を紡いだ三原修監督だった。水原は7試合に出場し、翌50年も現役を続けるつもりでいたが、そのオフ、いわゆる“三原排斥運動”が勃発、プロ野球も2リーグ制へと移行して、水原は引退し、監督に就任。翌51年から巨人は黄金時代に突入していく。

 ライバルの阪神にも、シベリア抑留から生還を果たした男がいた。その名を中田金一という。2年目の40年には正中堅手を務めているが、数字に残らない功績(?)は、そのムードメーカーぶり。無類のイタズラ好きで、野球よりもイタズラに精を出し、しかも手が込んでいて、何人ものチームメートが引っ掛けられたが、その明るいキャラクターのため、皆すぐに許してしまったという。

 そんな男も41年オフに応召、戦後はシベリアに抑留された。中田は水原よりも早く48年に復帰。初代の主将で腕っぷしも抜群だった松木謙治郎に「金ちゃんは道を間違えた。役者になったほうが成功したよ」と言われたというが、50年オフに現役を引退した中田は審判に転身、その後のプロ野球を長く支えていくことになる。

 いかにも巨人らしい存在だった水原。その一方で、いい時代の阪神という雰囲気をまとった中田の存在は、あの暗闇の時代にあって、ひと筋の光をプロ野球にもたらしたようにも思える。

文=犬企画マンホール 写真=BBM