「フォークのお化けが消えた」



阪神時代の野田。入団から3年間の背番号は「1」だった

 トレードは選手の野球人生だけでなく、チームの運命も大きく変える。阪神からオリックスに移籍した野田浩司はその代表例だ。

 野田が1988年ドラフト1位で入団したとき、阪神は暗黒期の真っただ中だった。ただその中でも孤軍奮闘でサイドスローに近いスリークォーターから繰り出す150キロに迫るストレートと視界から消える落差の鋭いフォークボールを武器に、1年目から先発、救援で42試合登板とフル回転。打線の援護に恵まれず3勝13敗と大きく負け越したが、防御率3.98は決して悪くない。90年には11勝をマーク。91年は開幕投手を務めた。

 92年も8勝9敗1セーブ、防御率2.98。2ケタ勝利には届かなかったが、合格点をつけられる成績だった。このとき24歳。エースとして将来を嘱望されていたが、同年オフにオリックスへのトレードを通告される。交換相手は「史上最高のスイッチヒッター」と称された松永浩美だった。

 この驚きのトレードの舞台裏には阪神のチーム事情があった。2年連続最下位で92年も下馬評が低かったが、残り15試合で首位をキープする快進撃。ところが、終盤に息切れし、ヤクルトに逆転優勝を許して惜しくも2位に終わった。先発陣は仲田幸司、中込伸、湯舟敏郎、葛西稔、野田と充実した陣容で、救援陣もセットアッパーの弓長起浩、御子柴進から守護神・田村勤につなぐ「勝利の方程式」を確立し、チーム防御率2.90はリーグトップだった。一方で、打線はパチョレック、オマリー、八木裕のクリーンアップに加えて亀山努、新庄剛志と若手コンビがブレークしたが、優勝したヤクルト打線と比べると破壊力で見劣りした。球団フロントは得点力アップへ、出血覚悟で野田を放出し、松永の獲得に踏み切った。

 このトレードは松永を獲得した阪神の補強を評価する声が当時多かったが、「魔球」と呼ばれたフォークの攻略に手を焼いていた相手球団の反応は違った。ヤクルト・野村克也監督は野田のオリックス移籍に「フォークのお化けが消えた」と喜び、他球団からも「野田がいなくなって助かった」という声が聞かれた。

新天地1年目で自己最高成績



95年4月21日のロッテ戦では1試合19奪三振のプロ野球記録を樹立

 実力派右腕は新天地で陽の目を見る。移籍1年目の93年に17勝を挙げ、最多勝を獲得。同年から3年連続2ケタ勝利、200奪三振とエース格として活躍した。95年4月21日のロッテ戦(千葉マリン)では、吹き荒れる強風を味方につけて伝家の宝刀・フォークを武器に1試合19奪三振の日本新記録を達成。98年以降は右ヒジ痛に苦しみ、00年に現役引退した。プロ13年間で通算316試合に登板し、89勝87敗9セーブ、防御率3.50。数字以上に強烈なインパクトを残した現役生活だった。

 引退直後に行われた週刊ベースボールのインタビューで「オリックス移籍1年目は自己最高の成績。やはり阪神を出された悔しさがあったのか?」と問われた野田は次のように述べている。

「自分の中で心に秘めていた部分はもちろん、あったと思うんですけどね。ただ、それだけではなく、阪神時代とは違った目で首脳陣が見てくれて。阪神時代は勝負弱いということで、結構途中で代えられたりしていたんですけど、オリックスでは先発ローテーション投手として大人扱いしてくれましたから。まあ、年齢的にも脂の乗ってきているときでしたし、阪神での5年間が生かされてフォームが一番安定していた時期でしたね」

 一方、野田を放出した阪神は93年から10年連続Bクラスと再び低迷期に入る。打線の核として獲得した松永も93年の1年間だけプレーし、同年オフにダイエーにFA移籍。結果論で言えば、野田を獲得したオリックスの大成功だった。

写真=BBM