歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

錚々たる投手たち



高い能力の選手がそろった広島投手陣を捕手としてけん引した達川

 1979年に初の日本一、そこからリーグ連覇、そして2年連続で日本一に。この2年間をピークに、前後10年あまりが広島の黄金時代だ。初優勝は75年で、20世紀で最後の優勝は91年と、時代は平成となっているが、前回から5年ぶりの優勝だったことや、初優勝から80年代を選手として支えた山本浩二が監督となっているなど、それまでのVイヤーとは色あいが異なっているようにも見えた。もしかすると、時代が昭和から平成へと移り変わったことも印象に影響を与えているかもしれない。21世紀に入り、日本一こそならなかったが、2016年からは初のリーグ3連覇もあったから、79年からの連続日本一を中心とした一時代は、昭和の黄金時代といえそうだ。

 主役は山本と衣笠祥雄の“YK砲”だったのかもしれない。一方で、その強さを盤石のものとしていたのは“投手王国”だ。広島は84年に3度目の日本一に輝いているが、“王国”が隆盛を極めたのは、この84年だっただろう。とにかく層が厚かった。先発には右腕で北別府学と山根和夫、左腕で大野豊と川口和久がいて、リリーフでは最優秀防御率の小林誠二がフル回転。のちに“炎のストッパー”と呼ばれる津田恒美(恒実)は故障もあって本領を発揮できなかったが、もし津田の全盛期であれば、小林の負担も軽減され、中盤から首位を争った中日を早々に突き放していた可能性も高いだろう。日替わりでヒーローが登場した実際と、楽勝で頂点に立つ仮定とで、どちらが盛り上がったかは別の話だ。

 こうした個性あふれる投手陣の記憶に上書きされた印象もあるが、70年代も投手陣は威容を誇っていた。初優勝のエースは、完全試合を含むプロ野球で最多のノーヒットノーラン3度を残した外木場義郎。先発では豪快なフォームもインパクト抜群の池谷公二郎もいて、救援では金城基泰が交通事故から8月に復帰して終盤の激闘を支えた。79年からは阪神から南海を経て移籍してきた江夏豊が絶対的クローザーとして立ちはだかる。独走となった80年は同じく南海から来た福士敬章が先発の軸に。北別府や大野ら、84年の“王国”を形成する投手たちの成長が際立ったシーズンでもあった。

 ただ、どんなに優秀な投手が集っても、投手だけで試合を作っていくのは不可能。彼らとバッテリーを組んだ司令塔たちも黄金時代に欠かせない存在だった。

秘めたワザ、見せる(?)ワザ



75年の連覇から80年まで不動の司令塔を担った水沼

 初優勝に貢献した水沼四郎は、79年の近鉄との日本シリーズ第7戦(大阪)で決勝の本塁打を放ち、絶体絶命の9回裏に、“江夏の21球”をリードしたことで知られる。73年に初めて出場100試合を突破、75年から連覇の80年まで不動の司令塔を担ったが、持ち味は捕逸の少ない安定感で、ちょうど100試合でマスクをかぶった79年の捕逸はゼロ。ちなみに、この79年にダイヤモンド・グラブ(現在のゴールデン・グラブ)となった阪神の若菜嘉晴は捕逸17で、水沼は最後まで賞とは無縁だった。目立つタイプではなかったが、まさに陰の立役者といえる存在だろう。

 その後継者は、対照的に目立つタイプだった。達川光男だ。当時を知るファンは、真っ先に“死球に当たったフリ”をする場面を思い浮かべるのではないか。内角球を避けて倒れたドサクサで爪を立てて腕をつねって傷を作り、審判にアピールするのが“必殺技”。テレビの『珍プレー好プレー』でも定番のネタだった。5年目の82年に水沼と併用され、オフに水沼が中日へ移籍したことで翌83年から司令塔に。以降リーグ優勝3度、日本一1度にチームを導き、ラストイヤーとなった92年にも100試合に出場している。

 一見するとタイプの異なる2人だが、打撃は勝負強く、右打ちを得意として、マスクをかぶれば“ささやき戦術”を駆使するなど、共通点も少なくない。

文=犬企画マンホール 写真=BBM