歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

“神様”の解雇



長男の病気のために帰国したバースはそのまま解雇となった

 1988年は、昭和63年。翌89年は昭和64年として迎えたが、すぐに元号は平成となる。日本の歴史で最も長かった昭和という時代は終わりを告げ、新しい時代へ突入したのだ。ただ、この21世紀の令和フィーバーとは大きく趣は異なり、この88年の、昭和という時代における最後の年末年始に向けて、世の中には自粛ムードが鬱積していたような記憶がある。一気に重い雰囲気が世相を覆い尽くしたわけではなかった。徐々に、それでいて確実に、時代が終わることを人々が受け入れていく時間だったのかもしれない。

 プロ野球の世界も時代の節目だったことは何度か触れている。南海の身売りはシーズン途中から噂され、それは閉幕を前に現実のものとなった。阪急がオリックスとなったのは、一時代の終わりを決定的にした印象がある。いずれも名門とはいえ、長く不人気に苦しんでいたパ・リーグのチーム。その歴史が終わるということは、昭和の終焉と同様、新しい時代が来るという期待感よりも、身近だったものが失われる寂寥感が強かった。

 一方のセ・リーグは、巨人の独走という面はあったものの、人気の面ではパ・リーグとは比較にならず、チームの歴史が終わるということはなかった。ただ、徐々に、そして確実に、チームの一時代を終えようとしていたチームがある。阪神だ。85年に21年ぶりリーグ優勝、その勢いのまま2リーグ制となって初の日本一に輝き、地元だけでなく、日本中が“猛虎フィーバー”に沸いた。だが、その翌86年にはバースが2年連続で三冠王となったものの、打線は全体的に迫力を欠き、チームは3位に。さらに続く87年には借金42、チーム史上ワーストの勝率.331と大きく負け越して、まさかの最下位に沈んだ。2年前の勢いも、ファンのフィーバーも嘘のような急転直下。オフには日本一イヤーの記憶も新しい吉田義男監督が退任、村山実監督が16年ぶりに復帰して、再起を期したのが88年だった。

 だが、ひとたび狂った歯車は、元に戻ることはなかった。長男の脳腫瘍が判明したバースが5月に帰国。ここで、再来日の期日を明言しなかったことや治療費をめぐって、球団とトラブルに発展してしまう。3年前は神様や仏様と並び称された日本一の功労者は、6月に解雇された。悪いことは続く。いや、唐突な退団だったバースとは対照的に、その男は優勝を逃した86年から、まるで一時代の終焉をファンが受け入れていくためのように、ずっと苦しんでいたのだ。

「自分なりに……」



引退試合で岡田から花束を受け取った掛布

 85年は、打撃3部門の数字ではバースに及ばなかった。ただ、その四番打者としての貢献は、すべてのファンが知っていただろう。掛布雅之だ。だが、翌86年は4月に死球で骨折し、離脱。完治する前に復帰したが、日本一イヤーの40本塁打、108打点を大きく下回る9本塁打、34打点に終わり、V逸の批判を一身に集めることになる。その後は持病の腰痛や、ヒザ痛も悪化。87年は規定打席にも到達させたが、数字は伸びなかった。そしてチームは最下位。不振に陥るたびにバッシングを浴び、それでもファンの期待に応えてきた猛虎の四番打者は、苦悩を深めていった。そして88年。バースのトラブル、そして退団は掛布の負荷を高くしたが、それを背負うことができないほどに、掛布は満身創痍だった。

 掛布は9月14日にシーズン限りで現役を引退することを発表する。プロ15年目ながら、まだ33歳の若さ。他チームからのオファーもあったが、掛布は阪神ひと筋を貫く決意をしていた。会見では、

「自分なりに、1日も早い復帰を、と思い練習してきたが、またヒザの痛みが出てしまった。このままではチームやファンに申し訳ない。自分なりに、結論を出して辞めるのだから、悔いはない」

 と語り、目に涙を浮かべた。

 ただ、そこからも練習に向き合う姿勢は変わらなかった。10月10日のヤクルト戦ダブルヘッダー第2試合が、本拠地の甲子園球場でのラストゲーム。事実上、これが掛布の引退試合だった。代名詞でもある「四番・サード」で先発出場。最後の打席はストレートの四球で、この4球目、マスクをかぶっていたヤクルトの秦真司は「振ってください」と叫んだが、掛布はバットを動かすことなく、静かに一塁へ歩いた。自らのバットで、自らの花道を飾ることを狙ったとしても、誰もが許したはずだ。だが、この男は、その晴れがましい道への可能性を、自ら断った。

文=犬企画マンホール 写真=BBM