歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

「痛がりだった」若手時代



プロ8年目、1999年の広島・金本

 1999年、7の月。20世紀の、それもそこそこ長い間、空から恐怖の大王とやらが降ってきて、世界が滅亡すると言われていた。20世紀を生きた人の記憶にこびりついて離れない(?)『ノストラダムスの大予言』だ。結局、そんな大事件は起きず、だからこうして21世紀も20年目を迎えているわけだが、プロ野球の世界では、その7月21日に、前人未到の大記録が静かに始まっている。

 もちろん、その当時は誰も、のちに記録を打ち立てることになる本人さえも、そのことに気づいていない。広島の金本知憲だ。2006年にカル・リプケン(オリオールズ)が保持していた連続フルイニング出場の世界記録903試合を更新して、最終的に1492試合連続フルイニング出場、連続出場も1766試合にまで伸ばしたしたのはFAで移籍した阪神でのことになるが、記録が始まったのは広島8年目のことだった。

 金本は2000年代の10年間は全試合、全イニング出場と完璧な“皆勤”。ファンは1イニングたりとも金本の姿を試合で見なかったことはないのだ。この間、ケガがなかったわけではない。これは広島の先輩で、かつて連続試合出場の世界記録を打ち立てた衣笠祥雄も同様だが、金本もグラウンドに立ち続けた。だが、その若手時代を「痛がりだった」と振り返る。痛いものは痛い。人間の感覚として当然のことだろう。ケガをすれば試合どころか練習も休む。やむを得ないことだ。若手時代は、そんな一般的な感覚を持つ、ごく普通の選手だったのだ。

 広島県の出身。広陵高から東北福祉大を経て、ドラフト4位で92年に広島へ入団した。最初のキャンプでは、自分より体の小さな選手が放つ打球が、自分より飛んでいるのを見て、「2、3年でクビになるな」と覚悟したという。そこから「やるべきことはやろう。そうすれば後悔もない」と気持ちを切り替えて、12球団でも随一と言われる二軍の猛練習を終えてから、大学時代からこだわっていたウエートにも本格的に取り組んで、黙々と体を鍛え上げる日々を送った。一軍出場は1年目が5試合、2年目が42試合。故障と関係なく、出場は伸びなかった。

 当時の二軍は三村敏之監督で、94年に一軍の監督に就任すると、オープン戦で金本をスタメンで起用しようとしていたことがあった。だが、金本は試合前の練習で捻挫。二軍でもケガの報告をする金本を怒鳴り続けてきた三村監督は当然、激怒する。金本の居場所は、ふたたび二軍となった。こうしたことを繰り返すうちに、金本はトレーニングでもケガをしないことを意識するようになり、ケガをしても隠すようになっていく。

世紀末に初のシーズン全イニング出場



1999年オフ、週刊ベースボールの取材時に本拠地の広島市民球場で特写

 3年目の94年には90試合の出場ながら17本塁打。打撃の師匠は山本一義コーチだった。2人の師匠は、ともに黄金時代の礎を築いたカープ魂の権化だ。それは徐々に金本へ浸透して、魂が鉄人の体を培っていく。翌95年に外野のレギュラーを確保して24本塁打を放ち、初めて規定打席にも到達。それでも、まだ104試合の出場にとどまっている。

 タフなだけでは試合に出続けることはできない。打撃が不振なら代打、守備に難があれば守備固め、足が遅ければ代打。金本に代わって出場機会をうかがう選手は大勢いる。敵だけでなく、味方ベンチにもスキを与えるわけにはいかない。その翌96年は初めて打率3割をクリア。続く97年には33本塁打で大台も突破した。だが、98年は21本塁打、打率.253と伸び悩む。減ってきてはいたが、まだ欠場があった頃だ。

 だが、迎えた99年。4月24日の中日戦(広島市民)でサイクル安打を達成すると、そのまま初の全試合出場。打率は3割に届かなかったものの、34本塁打で自己最多を更新する。主に四番打者を担った翌2000年が初のフルイニング出場だ。もちろん打撃も好調。翌01年に901打席で途切れるが、5月には連続打席無併殺の記録もスタートさせている。

 そして、20世紀における最後の公式戦となった10月11日のヤクルト戦(神宮)で30本塁打に到達して、プロ野球49人目のトリプルスリーを達成。「フルイニング出場は目標ではなく最低限の義務」と語ったのも、このころだ。金本の記録、いや「最低限の義務」は、20世紀が終わり、21世紀が始まっても続く。20世紀における連続フルイニング出場よりも長い時間をかけて。

文=犬企画マンホール 写真=BBM