歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

あと1歩でノーノーも



阪神、南海で通算92勝をマークした上田

 巨人が空前絶後のV9を達成した1973年の阪神については、これまでも何度か紹介してきた。巨人と優勝を争った阪神が、本拠地の甲子園球場で雌雄を決したのが47年前の今日、10月22日だ。その前にエースの江夏豊がフロントから「優勝せんでええ、カネがかかる」と言われたとされ、最終戦でV9を決められて観客がグラウンドに乱入して巨人ナインを襲撃、それだけでは収まらず、8月5日の巨人戦(甲子園)での池田祥浩(純一)の後逸が蒸し返されて“世紀の落球”と攻撃されるなど、後味の悪いエピソードが多いシーズンでもある。

 ただ、確かに優勝はできなかったが、阪神ナインの健闘は称賛に値する。初の三冠王に輝いた巨人の王貞治を向こうに回して、江夏は24勝で2度目の最多勝。その江夏に続く22勝を挙げて、リーグ3位の防御率2.23という安定感でチームを引っ張ったのがサブマリンの上田二朗(次郎)だった。

 南部高から東海大を経て、ドラフト1位で70年に入団。72年には先発の若生智男が一死も奪わずケガで降板するアクシデント、そこで緊急リリーフに立って完封するプロ野球で初めての快挙もあったが、V9を謳歌する巨人には、なかなか勝てずにいた。「コースをしっかり突いた分、四球が多かった。警戒しすぎて勝負にいっていなかった気がします。でも73年は、それがなかった」と上田は振り返る。

 春のキャンプでスローカーブをマスターし、投球フォームを修正したことで制球力も向上。これが好循環を生む。「柴田(勲)さん、土井(正三)さんの一、二番を、いかに塁に出さないか。これは僕だけじゃなく、基本中の基本だったと思います。王さんに対しては、自分の投球フォームを崩しても、“一本足”を崩してやろうと、そのくらい強い気持ちでいきました」と上田。ただ、「長嶋(茂雄)さんは……裏の裏でくるから難しいんです。王さんは、ここに投げれば打ってこない、というのがあるんですが、長嶋さんは分からないんです。目の高さの球でもフルスイングしてくるし(笑)」(上田)。実際、7月1日の巨人戦(甲子園)でノーヒットノーラン目前にまで迫った上田だったが、9回表二死で長嶋に打たれて、快挙を逃している。

 だが、その後も上田は順調だった。8月中旬からは勝ち星に恵まれないことが続いたものの、9月23日には初の20勝に到達。8月下旬のセ・リーグは全6チームが3ゲーム以内にひしめきあう大混戦だったが、抜け出したのが貫禄の巨人、そして上田のいた阪神だった。

勝つか引き分けで優勝の中日戦で


 不可解な采配があったのが10月20日の中日戦(中日)だ。22日の巨人戦を残していたが、この中日戦に勝つか引き分けで阪神が優勝という試合で、22勝14敗のうち8勝1敗と“中日キラー”の上田ではなく、巨人に闘志を燃やす江夏が先発のマウンドに。結局、阪神は中日戦、巨人戦と連敗して優勝を逃したのだが……。

「名古屋の試合で勝ちたい、決めたいわけじゃないですか。優勝を決めたい試合で大黒柱の江夏(が先発)で間違いじゃない。もちろん、(中日に強い)僕でも間違いじゃないとは思いますよ。でも、それは結果論。最終的には監督が決めることです。僕もリリーフの準備をしていたし、行ってたら抑えたかもしれないけど、これは、かも、ですよ。いろいろな憶測がありますが、過ぎたことです。次の最終戦は、僕は1回に失点して、いいところなく負けた。これが事実です。ただ、あのとき長嶋さんが右手薬指骨折でいなかったじゃないですか。長嶋さんのいない巨人に負けたのは悔しかったですね。だけどシーズンを通して考えれば、いろいろなことがあったし、僕の野球人生で最高の1年でした」(上田)

 80年に南海へ移籍した上田だったが、82年シーズン途中に阪神へ復帰して、そのオフに現役を引退している。

文=犬企画マンホール 写真=BBM