「1年間、日本でプレーすればローンが払えるよ」



巨人で四番として打線を牽引したラミレス

 20世紀プロ野球の大トリを飾ったON対決。

 2000年秋、日本シリーズで巨人の長嶋茂雄監督とダイエー率いる王貞治監督が対峙するON決戦が実現した。視聴率30%超えのテレビ中継ゲストにはTBS系列シドニー五輪テーマソング『I WISH』がヒット中で、シングル『恋愛レボリューション21』発売を控えたモーニング娘。から後藤真希や安倍なつみが呼ばれるお祭りモード(一方でラジオ中継解説にはV9時代の監督、ドン川上哲治氏が呼ばれていた事実にも驚く)。

 まさにひとつの時代の終わりと始まり。そのオフにはイチロー(オリックス)がポスティングシステムで、新庄剛志(阪神)がFAでのメジャー移籍を表明したことにより、日本の野球ファンにとって一気にMLBが身近になった。これまでの投手のメジャー挑戦とは違い、野手は毎日のように試合に出る。01年シーズン、マリナーズ戦やメッツ戦は日本人野手の出場試合としてNHK-BSで連日生中継され、夜のニュースでもダイジェスト映像が流れた。21世紀の夜明けとともに日米野球関係も大きく変わろうとしていたわけだ。そんな彼らと入れ替わるようにひっそりと来日した助っ人選手が、アレックス・ラミレスである。

 1974年ベネズエラ生まれで、まだ26歳の若さ。インディアンス時代は有望な若手スラッガーとして期待され、移籍先のパイレーツでも四番を務めたこともあったが、2000年シーズン終盤に自軍監督から今後は他の外野手を試してみたいと告げられる。事実上の戦力外通告だ。あくまで自分は毎日試合に出たい。なによりフロリダに買ったばかりの家のローンと車2台のローンもあったので、目先の金が必要だった。

 そんなときに浮上したのがヤクルト行きである。自著『ラミ流』(中央公論新社)によると、「日本のチームに誘われてるんだ。1年間、日本でプレーすればローンが払えるよ」と妻を説得。異国の地でのプレーに驚く友人たちにも「いいんだよ、1年で帰ってくるから。向こうでお金は稼げるだろう」なんて宣言したように当初はあくまで短期バイト的な出稼ぎ気分だった。ちなみにこのとき、ヤクルト国際スカウト中島国章氏の考える獲得候補には直後に西武入りするアレックス・カブレラもいたが、最後は気さくな性格が決め手となりラミレスを選んだという。

 来日直後の春季キャンプでは練習時間の長さに戸惑い、外野守備練習では契約どおりのライトに入ったが稲葉篤紀の守備の上手さに驚き、その日の内にレフト転向を受け入れる。1年目は打率.280、29本塁打、88打点、OPS.816という好成績だったが、当時はロベルト・ペタジーニという松井秀喜と毎年打撃タイトル争いを繰り広げていた不動の四番打者がいたためあまり目立たず、六番や七番の下位打線を任せられていた。タイミング良く来日1年目からチームは日本一に輝き、東京の生活もヤクルトの気さくな雰囲気も肌にあった。同僚から教えられた志村けんのギャグ「アイーン」がトレードマークとなり、子どもたちからも人気者に。タイムリーを打つとグラウンドでラミレスコールをしてくれるこの国の応援スタイルも最高だ。まあ、もう少しここでプレーしてもいいかもな……。こうして1年限定のはずの日本生活は、気が付けば果てしなく長い旅となっていく。

古田に聞いた日本野球の攻略法



ヤクルトでは2001年の日本一に貢献するなど7年間、活躍した

『週刊ベースボール』の写真撮影でも「アイーン」をリクエストすると、微妙に角度を変えて20数カットも笑顔でこなす神対応(一方でこの手のパフォーマンスは他球団の外国人選手から挑発行為と誤解されることも多々あったという)。その性格の良さから“ラミちゃん”と慕われるようになった男は、元メジャー・リーガーだからと意固地になるのではなく、周囲のアドバイスを受け入れる柔軟性があった。

 若松勉監督や八重樫幸雄コーチからの助言もあり、インサイドアウトのスイング軌道とオープンスタンスを実践して打球がセンターからライト方向にも飛ぶように意識改革。やがて同僚捕手の古田敦也に日本野球の攻略法を聞くと、「日本ではキャッチャーが配球をコントロールしてるから、ピッチャーよりまずはキャッチャーのことを学んだほうがいいよ」と教えられ、ラミレスは各チームの捕手の配球パターンをノートに取るようになる。岩村明憲には日本語や美味しい和食のレストランを教えてもらい、日本語の勉強のために新聞を見て毎日セ・パ両リーグ打撃トップ10を暗記して通訳にクイズを出してもらったという。郷に入れば郷に従え。日本という文化に、日本球界という慣れない世界に適応し、ラミちゃんはやがてリーグ屈指の強打者へと成長していく。

 3年目の03年には打率.333、40本塁打、124打点、OPS.988という好成績でホームランと打点の二冠獲得。2007年には右打者として史上初の200安打も記録した。ヤクルト在籍7年で本塁打王1度、打点王2度、最多安打2度の00年代を代表するスラッガーは、33歳の07年オフに複数年契約を希望するもヤクルトからは年俸現状維持の1年契約しか提示されず、年俸5億円の2年契約でオファーしてきた巨人移籍を決断。以前は外国人選手が苦労しているジャイアンツだけは絶対行きたくないと思っていたが、住み慣れた東京のチームで、その采配に興味を持っていた原監督が指揮していたことも後押しした。移籍直後の『週刊ベースボール』08年3月3日号での独占インタビューでは、自身の日本での好成績の秘訣は日々の研究の成果だと明かす。

「状況別の配球を頭の中に入れておけば、打席に立った際に非常に有利になるからね。そのために、DVDを見て分析をしている。僕のアシスタントに、出場ゲームをすべてDVDで録画してもらっているんだ。だから、次にドラゴンズ戦が控えていれば、前の3連戦のDVDで相手バッテリーの配球をチェックしておく。このように、事前に予習することが勝負強さの秘訣かな」
 
 毎日の予習が大事というヤリ手予備校講師のような台詞をさらっとかまし、さらに自身の将来像についても言及する。

「まずは選手としてのキャリアはジャイアンツで全うしたいと思っている。野球をリタイアした後は、チャンスがあれば監督になりたいんだ。日本の球団で監督の座に就ければベストだけれど、その場合はどこの球団でも構わないよ(笑)」

 その後のキャリアを考えると興味深い発言だが、ラミレスは巨人移籍後も打ちまくった。08年は45本塁打、125打点で打点王とMVP獲得。来日9年目で外国人枠を外れ、チームがリーグV3と日本一に輝いた09年は打率.322で首位打者と186安打の最多安打、さらに前年に続き2年連続MVPを受賞。10年は49本塁打、129打点で二冠に輝いた。なおこの2シーズンは全試合で四番打者としてフル出場、8年連続100打点はプロ野球記録である。クリーンアップを組む小笠原道大の早出練習に影響を受け、自身も12時まで球場入りしてガッツと一緒にルーティンをこなすようにした。まあ「ゲッツ!」のパフォーマンスはさすがにしつこかった気が……というのは置いといて、最強のオガラミコンビは第二次原政権の象徴でもあった。

来日13年目に偉業達成



2013年にはDeNAで外国人では初のNPB通算2000安打を達成

 すさまじい個人成績を残しながら、一方で若手選手にも積極的に声をかける。自著『チェンジ! 人とチームを強くする、ラミレス思考』(KADOKAWA)によると、坂本勇人がスランプに陥ると原監督から「ラミちゃん、ちょっと見てやってくれないか」とコーチングを頼まれることもあったという。ヤクルト時代は青木宣親に「内角球に的を絞れば、もっとホームランが打てるはずだよ」とアドバイスを送り、実際に青木はその年にキャリア最多の20本塁打をマークした。巨人では2度の優勝を経験したが、11年に低反発の統一球導入により打撃成績が落ち、守備面の不安やチームの若返りもあり、12年からはDeNAへ移籍。13年にはついに外国人選手として史上初のNPB通算2000安打を放つ。38歳、来日13年目の偉業達成だった。

 14年にはBCリーグの群馬で選手兼コーチとしてプレー。その年限りでの現役引退後は、同チームのシニアディレクターを経て、15年からオリックスの巡回アドバイザーに。主に二軍の選手にアドバイスを送ったが、ラミちゃんはあらゆる環境で着実に指導者経験を積んでいたのだ。そして、16年からDeNA監督に就任。GM含むチーム側との面談では「このチームを長年にわたってAクラスにするためのプランを私は持っています」とプレゼンしたという。その公約どおりに16年には前年最下位のチームを3位に導き、球団11年ぶりのAクラス入り。17年も3位から日本シリーズ出場。投手の八番起用や目まぐるしい継投策など賛否も多い中、日本国籍を取得した19年は21年ぶりの2位と結果は残している。監督5シーズン目の20年もメジャー移籍の筒香嘉智に代わり、16年ドラフト9位の佐野恵太を主将と四番に抜擢。佐野はリーグ首位打者を走り、その眼力の確かさを証明した。

 だが、悲願の優勝は遠く、現在3位争いを繰り広げているが、すでに一部スポーツ新聞ではラミレスの退任も報じられた。家のローンを払おうと1年限りのプレーのつもりで日本にやって来た26歳の若者は、46歳となった来日20年目のシーズンをどのような形で終えるのだろうか?

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM