歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

不都合な男



中日4年目の90年、本塁打王、打点王の打撃2冠に輝いた落合

 これまでも20世紀の落合博満に関しては何度かに分けて紹介してきた。駆け足で振り返ると、ロッテでプロ野球の最年少で三冠王に輝いたが数字の低さに批判を受け、奮起して3年後に圧倒的な数字で三冠王、以降2年連続で三冠王。当時の球界では間違いなく最強の打者だったが、そのオフに移籍を志願して、大騒動の末に中日へ。この頃から打撃の微妙かつ決定的な狂いに苦しめられるように。それでも、三冠王こそならなかったものの、移籍2年目には初めて優勝を経験すると、4年目の1990年に34本塁打、102打点で本塁打王、打点王の打撃2冠に輝いた。だが、中日はBクラス4位。三冠王の経験者である落合にとっては、無念の打撃2冠に終わった、という感覚だったのかもしれない。

 この落合という“王者”は、王道のド真ん中を歩かず、たとえ下り坂であっても、独特な歩みを見せた。それはグラウンドの中だけではない。その90年オフ。なかなか契約更改がまとまらなかった。落合の推定年俸は1億6500万円だったが、あらためて落合が希望したのは3億円。そこから2億7000万円まで下げたが、球団は2億2000万円が限度として、交渉は難航する。翌91年、キャンプの時期になっても話がまとまる気配はなく、日本人の選手として初めて年俸調停に突入した。それまで72年に阪神のマックファーデンが踏み切ったことがあり、前例がないわけではなかったが、日本人の選手は球団が提示した額に無条件で従う、従わなければならない“空気”があって、年俸調停は互いの希望額を提示した上で第三者に判断をゆだねる仕組みだったが、完全に形骸化していたのだ。

 カネに執着する人が一定数いる一方、カネのために生きているわけではない、と自らの仕事、役割に邁進する人も少なからずいて、美しく見えるのは後者のほうだろう。ただ、そんな人であっても、ある程度のカネがなければ生活もままならないのは悲しいかな現実だ。プロ野球選手に限らず、カネのトラブルは厄介なものだが、スポーツマンであるプロ野球選手にはカネより野球という人も多いだろうし、そういう姿勢がファンにも魅力的に映る部分もあるかもしれない。

 それまでも年俸にまつわるトラブルはあったが、世間よりは圧倒的に少なく、トラブルのたびに選手は世間を敵に回してしまうパターンも少なくなかった。世間がプロ野球選手に求めている偶像的な意味合いだけでなく、そもそもファンは選手のプレーを見たいわけであり、カネでもめているところなど見たくない、というような気持ちもあるのだろう。選手にしてみれば、そこまでしてもめるのは面倒、という思いもあったのかもしれない。ただ、これは球団という“経営者”にとっては都合のいい風潮、慣習でもある。グラウンドでは主軸としてチームを引っ張る落合は、一転、“不都合な男”となった。

会見の笑顔



年俸調停の末、91年3月8日、契約を更改し記者会見に臨んだ落合

 こうしたトラブルはチームの分裂にもつながりかねない。分かりやすいケースが、56年に阪神で勃発した“藤村排斥運動”ではないか。チームの創設にも参加している“ミスター・タイガース”藤村富美男は、落合と同様、球界を代表する強打者であり、いまでいうレジェンド。このときは兼任監督でもあり、アクの強いキャラクターが敬遠されていたこともあったが、カネに無頓着な男でもあり、いわゆる“言い値”、つまり活躍に見合わない安い額で契約に合意してしまっていたため、ほかの選手が「この額で藤村が我慢しているんだから、お前がワガママ言うな」と額を抑えられ、その不満が爆発した選手たちが藤村の退任を要求して再契約を拒否する大騒動に発展したものだ。

 ただ、落合の行動は逆。球団には都合が悪いことかもしれないが、ほかの選手にとっては権利の向上につながるもの。そして、落合がカネに頓着していたわけでもなかった。落合の目的は、そんな慣習に風穴を空け、年俸調停の存在を広く知らしめること。決着したのは3月8日で、球団の提示した2億2000万円で合意した落合は、会見で笑顔を見せた。

 バブル崩壊が始まったのは、その3月のことだとされる。さすがの落合も、そこまでを見通していたわけではないだろうが、終身雇用が当たり前だった世間でも、プロ野球の世界のように労働者のクビを切るようになっていった時代だ。このときの落合の行為がなかったら、いま我々が見ているストーブリーグの光景は違ったものだったのかもしれない。

文=犬企画マンホール 写真=BBM