劇的な一打を何度も



強打の遊撃手として巨人で光り輝いた二岡

 巨人・坂本勇人が今季中に通算2000安打を達成できるかが注目されている。新型コロナウイルスの影響で開幕が3カ月遅れたため、史上最速の31歳7か月で2000安打をマークした榎本喜八(東京)の記録を塗り替えることはできなかったが、偉業は色褪せない。鋭いスイングで衰えを見せていないことから3000安打も十分に狙えるだろう。

 坂本は高卒2年目に遊撃のレギュラーに定着している。奪われた形になったのは故障で戦線離脱した二岡智宏。強肩強打の遊撃手で、右打ちで長打を放つ技術は芸術と称された。プロ通算1314安打を放ったが、故障がなければ2000安打を達成しても不思議でない。巨人の球団史上に残る名遊撃手だった。

 二岡は福原忍(現阪神一軍投手コーチ)と小学校から高校まで同じで、中学時代は二岡がエースだった。広陵高では福原とダブルエースで三塁も兼任していた。近大で関西学生リーグで当時通算歴代1位の13本塁打をマーク。ちなみにこの記録を今秋のリーグ戦で22年ぶりに塗り替えたのが近大の後輩・佐藤輝明だった。このときの近大は黄金時代で3年時の97年に春・秋のリーグ戦、大学選手権、明治神宮野球大会、社会人選手権優勝チームとのアマ王座決定戦のすべてで優勝。史上初のアマチュア五冠を達成した。攻守の中心として活躍した二岡は大学No.1野手として注目を集める。広島、阪神、巨人が激しい争奪戦を繰り広げる中、逆指名によるドラフト2位で巨人に入団する。

 実力は本物だった。新人の99年に遊撃手を長年守っていた川相昌弘からレギュラーを奪い、126試合に出場して打率.289、18本塁打をマーク。同期入団の上原浩治が20勝を挙げて新人王に選出されたが、二岡の貢献度も非常に高かった。

 勝負強く、大舞台で劇的な一打が多いことでも知られた。2年目の00年には9月24日の中日戦(東京ドーム)で右中間にリーグ優勝を決めるサヨナラアーチ。2002年に遊撃で球団史上初の20本塁打以上を放ち、日本シリーズの西武戦ではシリーズ史上初の3戦連続猛打賞、第3戦で満塁本塁打を放つなど4試合で打率.474と打ちまくり、日本シリーズMVPに輝いている。03年は全試合出場で打率.300、自己最多の29本塁打と球界を代表する選手に。06年も全試合に出場し、4月30日の中日戦(東京ドーム)でNPB史上初の2打席連続満塁本塁打を含む3本塁打10打点の大暴れ。6月8日のソフトバンク戦(ヤフードーム)で1961年の長嶋茂雄以来35年ぶりとなる「四番・遊撃手」に抜擢された。

08年オフに日本ハムへ



日本ハムでも勝負強い打撃を見せた

 07年までのプロ9年間で積み上げた安打数は1099本。脂がのり切った31歳でまだまだ主力として活躍できると思われたが、08年に大きく運命が変わる。開幕のヤクルト戦(神宮)で試合中に右ふくらはぎを肉離れし、ファーム調整に。7月中旬に一軍昇格するが、遊撃手のレギュラーは当時19歳の坂本だったため、出場機会は三塁だった。不運は重なる。9月14日に右足首を捻挫して再び二軍落ち。自己最少の31試合の出場に終わった。プロの世界は厳しい。1年前まで「不動の遊撃」だった男はチームに不可欠な存在ではなくなっていた。同年オフにマイケル中村、工藤隆人との交換トレードで林昌範とともに日本ハムへ移籍。選手会長のトレード移籍は極めて異例で球団史上初めての出来事だった。

 日本ハムでは下半身に故障を抱えていたことから指名打者での起用が多かった。移籍初年度の09年は代打で打率.400、12年も打率.353と高打率を残して打撃技術の高さを発揮したが、13年は両ふくらはぎの不調に悩まされるなど打率.071に終わり、戦力外通告を受けた。現役続行の道を模索も、獲得に名乗りを挙げる球団がなかったため現役引退を決意。千葉・鎌ケ谷の二軍施設で開かれた引退会見で、「プレーしていて力を抜くことはできない。ケガがあったことへの後悔はない」と話した上で、「完全燃焼できたと思う」とすがすがしい表情を浮かべた。

 プロ15年間で1457試合出場し、打率.282、173本塁打、622打点。故障との闘いに苦しんだ時期も多かったが、スケールの大きいプレーで巨人の「遊撃手像」を変えた名選手だった。

写真=BBM