阪急で監督に続くナンバーだった時代も



94年、背番号「51」でブレークしたイチロー

 プロ野球で通算1278安打、メジャーで通算3089安打。日米通算では4367安打を放ったイチローがプロ1年目、1992年にオリックスで背負った「51」。イチローは20世紀の終焉とともに海を渡り、時は流れて、2019年に現役を引退したとき、「51」は世界のヒットメーカーを象徴するナンバーとして役割を終えた。ただ、それ以前、イチローがオリックスに在籍していたときから、「51」といえば真っ先にイチローを思い浮かべるファンは多かっただろう。

 メジャーでもマリナーズで「51」を背負ったイチロー。ヤンキースに在籍していた期間は「31」で、イチロー自身は気にしなかったかもしれないが、「31」を着けたイチローに微妙な、いや絶対的な違和感を禁じ得なかった、というファンも少なくないのではなかろうか。もともと「51」は数チームでヒットメーカーの登竜門となっていた背番号で、詳しくは各チームの「51」を紹介する機会に改めるが、デビューのときに背負った「51」を自身の象徴にまで昇華させ、最後も「51」で終えた好打者となると、グッと人数が減ってくる。

 一方、イチローが去ったオリックスでは、「51」は欠番のままだ。オリックスはプロ野球が始まった1936年に参加した阪急が起源で、「51」が初めて登場するのは2リーグ制となってからで、外野手の平田守が初代だが、54年から55年まで着けた平田は一軍出場のないまま引退。2代目も外野手の石川恵也で、2年目の57年に初出場を果たし、59年には「25」に変更した。3代目の広野翼も外野手。プロ1年目の60年から「51」を背負い、翌61年に自己最多の69試合に出場、2本塁打を放った。その翌62年には「28」となり、64年オフに現役を引退。66年に中日へ入団して逆転サヨナラ満塁本塁打、巨人へ移籍して1年目にプロ野球3人目の代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放った広野功の兄だが、兄弟が同時にプロ野球でプレーすることはなかった。

 62年に投手の川内工一、64年にも投手の遠藤浩司が着けるも、ともに一軍登板なし。66年からは真田重蔵コーチの背番号となったが、これは西本幸雄監督の「50」に続くナンバーという別の顔を持つ。72年から助っ人で投手のライトが着けて一軍登板なし。74年にも投手の山下浩二が着け、1年目から「51」で初めて一軍のマウンドに立ったが、80年までプレーして通算4試合の登板にとどまった。81年に着けた西尾利春も一軍登板なし。85年に野手の背中へと戻ったことで、「51」は渋い輝きを放つようになる。

「51」をニックネームにした男



現在、オリックスでGMを務める福良も阪急入団時は背番号「51」だった

 85年、新たに「51」を着けたのがドラフト6位で入団した福良淳一だった。翌86年には二塁の定位置をつかみ、「51」の選手として初めてレギュラーに。ニックネームは“デコ”だったが、これは「51」からSLのD51を連想し、その愛称“デコイチ”からのものだという。だが、福良は阪急ラストイヤーの88年から「1」に。その88年に着けた新人で投手の八木政義が2試合に登板、そのままオリックスの初代「51」となったが、その後は一軍登板なし。八木の引退で、ドラフト4位で92年に入団した鈴木一朗が「51」を背負うことになる。

 その背中で初めてオリックスの「51」は一軍のグラウンドに立つことになった。登録名を「イチロー」に改めたのは、プロ野球で初めてシーズン200安打を突破した94年のことだった。以降7年連続で首位打者に輝いたイチローは、「51」で最初にして、おそらくは最後のタイトルホルダーでもある。

 オリックスは2004年の球界再編で近鉄と合併、オリックス・バファローズとなり、近鉄で指揮を執った経験もあり、オリックスではイチローを見出した仰木彬監督が就任。このときイチローが仰木監督に「51」を着けることを提案したが、仰木監督は「そんな恐ろしいことができるか」と固辞したという。あこがれの選手が着けた背番号を更新の選手が継承するパターンは散見されるが、弟子の背番号を師匠が継承することになったら異例のこと。イチローの存在が空白として残るのもドラマチックではあるが、仰木監督の「51」も見たかった気はする。

【オリックス】主な背番号51の選手
広野翼(1960〜61)
山下浩二(1974〜80)
福良淳一(1985〜87)
八木政義(1988〜91)
イチロー(1992〜2000)

文=犬企画マンホール 写真=BBM