「もっと早く『刃牙』に出会っていれば・・・」

「ボーイズラブ」(BL)の研究家、金田淳子さん(46)だ。このほど、初の単著「『グラップラー刃牙』はBLではないかと1日30時間300日考えた乙女の記録ッッ」(河出書房新社)を上梓した。

『グラップラー刃牙』シリーズ(板垣恵介・秋田書店)は、主人公の範馬刃牙が、さまざまな闘いを通して成長していく格闘漫画で、ネット上でも絶大な人気のある作品の一つだ。シリーズ累計で、7500万部以上売り上げている。

BLは、女性が女性に向けて男性同士の恋愛とセックスをえがくジャンル。その研究家である金田さんは昨年夏、『刃牙』シリーズを読みはじめた。作中から、BLの要素を見いだし、投稿サイト「note」(https://note.com/higez/n/n5718ac8d348f)で、独自の解釈を展開している。

今回の著書は、noteにつづった記事を元に加筆したものだ。

そんな一風変わった金田さんだが、東京大学法学部卒で、弁護士を目指して、司法試験の勉強をしていた過去がある。どうして、弁護士の道をあきらめてしまったのか。そして、『刃牙』は彼女にどんな影響を与えたのか。金田さんに聞いた。(編集部・山下真史)

●「将来ラクできそう」と弁護士を目指した

――なぜ東大法学部(文科一類)に入ったのか、というところから教えてください。

もともと文学部の学問のほうが、自分の興味、関心に近かったんですが、高校生のころ、一生のテーマとして研究したいと思えるようなことがなく、「将来ラクできそう」という基準で考えて、法律の勉強をしようと思ったからです。

要するに、文系の中で一番、地位と名誉と金が手に入りそうに思えたんですね(笑)。

当時のわたしの周りには、ひとりも弁護士がいなくて、職業としてもよく知らず、軽くとらえていたのだと思います。あのころ、もしも周りに「弁護士って、こういう職業だよ」と教えてくれる人がいたら、別の進路を選択していたかもしれません。

――金田さんは1993年に東大入学です。バブル崩壊の直後とはいえ、それなりに楽しいキャンパスライフだったのではないかと思うんですが、法律の勉強はしたんですか?

いまの私の怠惰さからは信じられないことですが、履修登録した法学部の講義はほぼ全コマ出席していましたね。法律の勉強はそこそこ面白かったし、むずかしくもなかったです。

でも、「一生つづけるのはイヤだな」と思いました。そんなに興味のない勉強をつづけるのは、正直ムリです。幸いにも、親に言われて弁護士を目指していたわけでもなかったので、パッとあきらめました。

当時、私大などだったら、「たとえ10年かかっても、司法試験に合格すればいい」という雰囲気でした。しかし、東大の場合、4年生までに合格しなかったらあきらめると言っている人が多かった。「司法浪人してまでは・・・」という空気です。その空気につられて、私もやめるときは一瞬でやめたという感じです。周りの東大生の勉強ぶりにドン引きしたこともあります。

――どんなエピソードですか?

あきらかに私よりも優秀な人が「トイレに行く20秒すらもったいない」と言いながら、勉強していました。ほかにも、図書館で隣に座った男性が、大きな声で「オレさ、昨日10時間しか勉強してねえよ」と独り言を言ったこともありました。

知らない人でしたが、カバンの中には『ポケット六法』(有斐閣)が入っていたので、まちがいなく法学部生です。今から考えれば、『地獄のミサワ』みたいな人ですが、当時は、ふつうに驚いてしまって、ツッコミを入れることさえできませんでした。

●「だいぶつべんさい」につまずいた

――先ほど、「法律の勉強はむずかしくない」という言葉がありましたが、勉強をつづけていれば、弁護士というステイタスが手に入ったかもしれません。

むずかしくないけれど、煩雑で、膨大な数のトピックがあるというイメージです。そういう勉強にまったく生きがいを感じなかったし、問題が解けて楽しいという感覚もありませんでした。そして、致命的に向いていないんじゃないか、という衝撃の事件が発生しました。

――どんな事件ですか?

当時、LEC(東京リーガルマインド)で、伊藤真先生(現:伊藤塾塾長・弁護士)のビデオ授業を受けていました。

たしかに伊藤真先生の解説はものすごくわかりやすい。しかし、わたしは、興味のない科目は、予習すらも、その日やるところをその日に確認するという程度です。

ある日、伊藤真先生が「民法に、『だいぶつべんさい』という重要なトピックがあるけど、これについてはあとでやる」という内容のことを言いました。

そのとき、私は即座に「大仏」を思い浮かべました。「大仏弁済(だいぶつべんさい)」です。奈良の大仏が「もう弁済なんかしなくていいよ。大仏のような広い心があるから、債権なんか弁済しなくていいよ」と言っているシーンを想像して、ひとりで納得しました。

それから半年くらい経って、たまたま教科書をめくっていたら、「代物弁済」というワードを見つけました。もしかして、これが「だいぶつべんさい?」とびっくりしました。言われてみると、「大仏のような広い心があるから、もう弁済しなくていいよ」というのが、重要なトピックになるわけがありません。

●東大文学部に入り直した

――弁護士をあきらめたあとは?

子どものころから就職のイメージがまったくありませんでした。会社に入って働くということを一瞬たりともイメージしたことがなかったんです。

そして、大学4年生になるころには「ほんとうは文学部に入りたかった」「好きなアニメや漫画の話をずっとしていたい」と考えるようになっていました。

当時、わたしは「努力さえすれば、女だって、東大に入れる」と考えているような、東大法学部に居がちなアホ学生だったんですが、友だちの中にフェミニズムに詳しい人がいて、その人たちと話したり、図書館で本を借りて読んだりしているうちに、上野千鶴子先生の下でフェミニズムや社会学を本格的に勉強したいと思うようになりました。

そしてわたしの好きな、やおい・ボーイズラブの文化について研究しようと。当時、このジャンルはまともな研究がまったくと言っていいほど存在しておらず、僭越ながら「俺が守護(しゅご)らねばならぬ」という気持ちがありました。

もう一つ、正直に言えば、まともな研究がないということは、ブルーオーシャン的なジャンルだとも思っていました。それで、法学部卒業後は、東大の文学部に学士入学しました。

――そのあとは?

そこでも、いくつか失敗エピソードがあります。

学士入学すると、1年目から院試を受けられます。その際に「研究計画」を提出するんですが、ふつうは事前に先輩にみてもらって、指導してもらいます。

わたしは、先輩に事前に指導してもらうのは、テストの正解を先に教えてもらうような、ズルイことのように考えていたので、社会学の先行研究にまったく関連づけないまま、自己流でエッセイ的に研究計画を書きました。その結果、学科試験はできたけど、院試に落ちてしまったんです。上野先生からは「なんで先輩にみてもらわないの?」と言われました。

わたしの人生はいつも、代物弁済を「大仏弁済」と思ってしまうように、その界隈での基本的な常識やルールがワカッていない。がむしゃらに自分ひとりで考えて・・・というと聞こえは良いですが、学ばず、悪い意味で自己流でやってしまうだけです。そうこうしているうちに、ようやく去年、『刃牙』に出会いました。

――え・・・ちょっと話が飛びましたね。この空白の期間はいったい何が?

あまり語りたくないんですが・・・(中略)・・・。それで一切、研究のことを考えるのはやめたいと思う時期がありました・・・。そんなとき、『ユリイカ』(青土社)に評論を書かないかと誘われました。

『ユリイカ』の読者の中には、「金田さんのBL評論に納得した」と言ってくれる人がいて、それまで「ボーイズラブ・やおい」というジャンルでやってきたことが、学術論文というかたちではありませんが、ようやく他人に還元できるようになったと思いました。そうこうしているうちに、去年・・・。

●なぜ、だれもBLだと教えてくれなかったのか

――「そうこうしている期間」が長いですね。

そうですね。人生に不慣れだったのは、やはり『刃牙』を読んでいなかったせいかもしれませんね(笑)。

『グラップラー刃牙』は、1991年に連載がはじまって、1992年に単行本第1巻が出ています。わたしは一浪して、1993年に東大に入学しました。もし、あのころ読んでいたら、「炭酸抜きコーラ」とか「おじや」を食べて、筋肉を鍛えて、試験問題についてリアルにイメージして闘って、浪人もしていなかったかも・・・いや、これは言いすぎですね(笑)。

いずれにしても、『刃牙』と私の人生が、不運にも交わりませんでした。その結果、25年以上も、『刃牙』のない時間を過ごしてしまいました。

――『刃牙』を読んでみて、どうでしたか?

昨年夏、ウェブコミックサイトで無料になっていたのを見つけて、さすがに超有名作品である『刃牙』の存在は知っていたので、ちょっとした義務感で読んでみようかと。

それまでは、BLの鉱脈を感じて、何らかの本を手にとることが多かったのですが、『刃牙』は久しぶりに、ただ学ぼうと、何もかまえずに読んだところ、ものすごい衝撃を受けました。

たとえば、範馬勇次郎(主人公・範馬刃牙の父)には「アンタとヤリたかった・・・」「闘いはSEX以上のコミュニケーションだ」というセリフがあります。闘いやスポーツを主題とする少年マンガでは、何かしらBL的な匂わせがあったりするものですが、ここまで直球のセリフは初めて見ました。完全にBLだと思いました。

みんな『刃牙』の話はしているのに、なぜBLだということを教えてくれなかったのか。みんなの目がフシ穴だったのか、それとも男子だけで、ひそかにエロスを楽しんでいたのか。残念ながら、私の周りの女子の友だちは一人も読んでいませんでした。

●自分の伸びしろを感じた

――『刃牙』を読んだことで変わったことは?

まず、体重が増えることを気にしなくなりました。

日本に生まれた女子で、体重を気にしない人はほとんどいません。もともと太っていたわけではないのですが、健康のためではなく、美容を考えて、若いころは「食べすぎないように」と気をつけていました。とくに20代のころは、いつも空腹でした。

だけど、『刃牙』の登場人物は、ほとんど100キロをこえています。主人公の刃牙さんは70キロ台ですが、ウエイトが少ないことを気にするシーンがあります。それで、やはり「100キロ以下は小柄」という価値観になりました。格闘家として自分はまだまだ、と。

格闘家と一般人の体格を混同しているのでは・・・と私の判断力を心配されている方がいると思いますが、『範馬刃牙』では、元モデルで、病気のせいで身動きできないほど太ってしまったマリアという女性が出てきます。太ったあとも、彼女がまったく卑屈になることなく、気高さを失っていないことが肯定的に描かれていて、かっこいいなと思いました。

――格闘技を習ったり、運動したりは?

まったくしていません。筋肉がついたらいいなとは思うんですが、ジムに入会しても、絶対に通わない自信があります。それでも、ランニングくらいはしたい、と思っていますよ。もっと体重が増えてから走りたいですね。

――最後の質問ですが、『刃牙』を読んだら人生は変りますか?

うーん。そんなに簡単に人生は変わりませんよ(笑)。

ただ、昨年夏から少しずつ読んでいくうちに、いくつか発見はありました。

わたしがそれまで好きになるのは、『三国志』の荀彧(じゅんいく・魏の曹操を支えた参謀)や、戦国時代の石田三成など、軍師型の頭脳派のキャラクターです。加えて40代以上とか、ある程度、年齢を重ねたキャラです。

一方で、『刃牙』では、愚地克巳が一番好きです。克巳は登場時に20歳で、身長186.5センチ、体重はうっすら脂肪を残し116キロ。どちらかというとあまり物事を複雑に考えないタイプだと思います。

「まさかこの年齢になって、こんなガッチリムッチリした、『頭からっぽのほうが夢つめこめる』系の若者キャラを好きになることがあるなんて!」と、久しぶりに自分の伸びしろを感じました。自分の可能性を新しく発見できたということですね。

まさに、わたしにとって、『刃牙』は「人生がときめくグラップルの魔法」でした。