平田オリザが読む

 一九九八年、俵万智さんが与謝野晶子の『みだれ髪』を「チョコレート語訳」と称して出版をした際に、小さな議論が起こった。すなわち、まだ初版から百年にも満たない作品を現代語訳する意味があるのかというのだ。

 いくつかの訳を見てみよう。

 やは肌のあつき血汐(ちしほ)にふれも見でさびしからずや道を説く君

 これを俵さんは、次のように訳した。

 燃える肌を抱くこともなく人生を語り続けて寂しくないの

 確かに、この程度なら現代語訳の必要はないかもしれない。しかし、次の歌はどうだろう。

 その子二十(はたち)櫛(くし)にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな

 この「チョコレート語訳」は、次のようになる。

 二十歳とはロングヘアーをなびかせて畏(おそ)れを知らぬ春のヴィーナス

 素晴らしい翻案だと思う。そして与謝野晶子の本歌の素晴らしさもまた再認識させられる。

 私は先の議論が起こった際に、それより問題は、本来の『みだれ髪』自体の中に、口語短歌に向かう、ある種の美しい混乱があるのではないかと指摘した。

 『みだれ髪』の出版は一九○一年。まさに二十世紀の幕開けだ。前年には与謝野鉄幹と正岡子規の周囲で、短歌改革の方向を巡って論争が起こる。また翌年一九○二年には子規がこの世を去る。小説と同様に短歌もまた、言文一致、近代化の波に翻弄(ほんろう)されていた。

 だが『みだれ髪』の登場の意義は、そのような狭い意味での文学史上の出来事だけに止(とど)まらない。当時、この作品の出版は、大きな反響を呼んだ。日本の和歌の歴史では、平安朝より後、女性が自分の性についてこれほど赤裸々に語る歌は登場していなかったのではないか。

 明治維新から三十有余年、やっと女性が、その心情を言葉にする武器を得た。その点で本作の誕生は、島崎藤村の『破戒』に匹敵するほどに、文学がその形式と内容を一致させた幸福な瞬間だったと言えるだろう。=朝日新聞2020年1月18日掲載