同定の政治、転覆する声 アルゼンチンの「失踪者」と日系人 [著]石田智恵

 1970年代後半、アルゼンチンの軍事政権は、敵とみなした3万人とも言われる市民を拉致し、拷問・殺害した上、死の痕跡さえ消し去った。この「失踪者」をめぐり、残された家族や人権団体は、「記憶・真実・正義」をいかに回復させようとしたのか。本書は同国のマイノリティーである日系人の「失踪者」とその家族に迫り、この問いに絡まる人種や国民という縛りの問題までたぐりよせる。
 地球の裏側で昔起きた遠い出来事。著者はそんな無関心を許さない。私たちと同じ出自(ルーツ)を持つ人々の悲劇だから、ではない。人生を奪われた日系二世の若者が抗ったのは、国家のテロリズムだけではなかった。南米で最も白人比率の高いこの国の人種主義(レイシズム)を逃れるために、一世は善良たろうと努め、母国でそうだったように「お上」に翼賛した。だから二世は、出自に還元して個人を認めない「同定」の権力を振るう国家や移民コミュニティーとは「別様の社会」を求め、摘発されやすい東洋人の「顔」をさらしてまで運動に身を投じて、自由の実現を願った。その意味でこそ、彼らは危険な「転覆分子」だった。
 むしろ他人事(ひとごと)ではないのは、やられたヤツは自業自得なんだ、とにかく「目立つことをするな」と、恐怖にかられて互いの関わりを否認しあった社会の方だろう。犠牲者の家族は遺体を確認できず、深い悲しみを許されぬばかりか、ふりしぼる訴えを聴き取ろうとしない周囲にいっそう傷つけられた。しかもこの「沈黙の体制」は、政権に都合の良い新自由主義的な政策を導入する露払いとなった。
 突きつけられた事実は重たい。だが、暴力で寸断された公私の関係を家族たちが結び直し、「失踪者」の未完の試みを受け継ぐかのように社会を変えていく姿は、希望を与えてくれる。日常の何げない言葉やふるまいを読み解いて、粘り強い変革の道程を描き出す本書からは、文化人類学という学問の可能性も見通せる。
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 いしだ・ちえ 1985年生まれ。早稲田大准教授(文化人類学)。共編著に『異貌の同時代 人類・学・の外へ』など。