大澤真幸が読む

 『精神現象学』は、精神の発展の大パノラマのような驚異の書物である。ヘーゲルは、「感覚」から始まって、「知覚」「悟性」「自己意識」「理性」「精神」「宗教」を経て「絶対知」に至る意識の全成長過程を、目がくらむほど多彩な話題を繰り出しながら論じ尽くす。

 この大著を導く最も重要な着想は、序文の「真なるものを実体としてではなく、同様に主体として把握し表現する」という宣言に読み取ることができる。「実体」とは不変の真実在のことで、要するに「神」のことだと思えばよい。その実体が「主体」でもあると見なしたところにヘーゲルの独創がある。

 実体が主体である、とはどういうことか。もとにあるイメージは、キリスト教の神の「受肉」である。受肉とは、神(実体)がキリストという人間(主体)になることだ。

 この実体=主体の論理が繰り返し登場する。例えば、当時流行していた骨相学を逆手にとった「精神は骨である」という命題が出てくる。「骨」を「脳」に置き換えれば現代にも通じる。この命題は「神は人間である」の変形版である。

 ヘーゲルは、精神はしょせん骨や脳のような事物に過ぎない、と言っているのではない。精神のような高貴なものが、ちんけな事物と等しいとされたときに覚える圧倒的な不調和感をもたらすことが狙いだ。「あの惨めな男が神だって!」という驚きに通ずる。

 キリストが十字架の上で死んだとき、神が別のどこかにいたわけではない。他ならぬ神が死んだのだ。するとどうなるのか。

 キリストというあの人間は、神(実体)の現れである。ところで、彼と独立には神はいない。そうだとすれば、あの人間はいわば自己分裂して、自分がそれの現れとなるところの実体(神)を生み出していることになる。このふしぎな仕組みをヘーゲルは「主体」と呼ぶ。ヘーゲルの直観では、精神と物との間の関係も同じ論理で説明できる、ということになる。=朝日新聞2020年5月2日掲載