明智光秀が織田信長を倒した本能寺の変(1582年)を、新たな角度から読み解こうとした『キリシタン教会と本能寺の変』(角川新書)が出版された。

 著者はキリシタン史が専門の浅見雅一・慶応大学教授。本能寺の変の史料の大半が光秀を謀反人とみる後世の視点から書かれたことに着目。この制約を受けない史料として、宣教師ルイス・フロイスが変の約5カ月後にまとめた「1582年の日本年報補遺(信長の死について)」を吟味していく。

 浅見さんによると「補遺」には、信長が安土に寺を建立して自らを崇拝させようとしたという記述や、天下統一の後に中国征服の大艦隊を準備させようとしていた等の記述があるが、日本の史料で裏付けられないことから信憑(しんぴょう)性が疑われてきた。

 だが、浅見さんは「自己神格化の記述の後には、同じ宗教関連の記載として、息子の信忠が本能寺の変の3日前に愛宕神社に参拝したという記事があって、セットになっている。これらはいずれも京都にいた司祭のカリオンの実地の見聞に基づくものと思われ、事実なのではないか」と指摘。さらに「豊臣秀吉が、自らを『日輪の子である』と称して大陸進出を試みた事実と考え合わせれば、神格化と派兵は元々は信長の構想であり、秀吉はそれを具体化したと考えれば腑(ふ)に落ちる」と話す。

 他方、フロイスが後にまとめた「日本史」では、本能寺の変の理由を、光秀の徳川家康への接待が気に入らなかった信長が足蹴にしたからだと怨恨(えんこん)説が示唆されるが、「この記述は補遺にはなく、後に不明確な情報をもとに書き加えられたもの」と判断。「光秀の謀反の理由は同時代の人にもはっきりとわからなかった。理由を推測できたのは娘の細川ガラシャぐらい」として、後のガラシャの行動などから、光秀の謀反の理由にも迫っている。(編集委員・宮代栄一)=朝日新聞2020年7月1日掲載