「憧れたのはウチの師匠だけです」明石家さんまが“高校生”から“芸人”になった瞬間を振り返る から続く

 ビートたけし、タモリと並び“お笑いビッグ3”の一角として語られる芸人明石家さんま。テレビで目にしない日はほとんどなく、今もなおお笑い界のトップスターの一人である事実に疑いの余地はない。そんな彼は一体どのようにして、国民的芸人としての地位を確固たるものに築き上げたのか……

 その知られざる歴史に迫ったのが、本人の証言と膨大な資料を精査する“明石家さんま研究”を20年以上続けるエムカク氏だ。ここでは著書『 明石家さんまヒストリー1 1955〜1981 「明石家さんま」の誕生 』より、明石家さんまがお笑いに目覚めたきっかけ、そして中学時代のエピソードを引用し、紹介する。

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実母の死と「奈良の三バカ大将」

 1955年7月1日金曜日。杉本家の次男として、和歌山県東牟婁郡古座町(現・串本町)で生まれた高文は、その半年後、家庭の事情で奈良県奈良市奈良阪町へと移り住むことになった。

 父の恒、母のつぎ代は、さんまの干物などを生産する小さな水産加工会社「杉音食品」を営み、朝から晩まで休むことなく一心不乱に働き、一家を支えた。

 高文が2歳10か月のときに、つぎ代は突然この世を去る。体が丈夫なつぎ代だったが、奈良へ移り住んでからの心身の疲労は激しく、病魔は徐々につぎ代の身体を蝕んでいった。倒れてから息を引き取るまでの時間はあまりにも短く、家族はつぎ代の死を受け入れることができぬまま、慌ただしく葬儀の日を迎える。


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 葬儀の最中、幼い高文は母の死を理解できず、無邪気に自宅の庭で遊んでいた。すると、日頃は大人しく、これまで人に噛みついたことなど一度もなかった飼い犬が、高文の左腕に強く噛みついた。高文は大声で泣き叫んだ。その傷は消えることなく痕を残し、高文にとって母へとつながる唯一の記憶となる。

 さんま「顔も覚えてないからね。母の思い出は、この傷だけやねん」(フジテレビ『ホンマでっか!?TV4時間半SP!!』2015年1月7日)

 1960年、つぎ代の三回忌法要を迎え、しばらく経った頃、恒はすみ江と再婚する。

 新しい母と暮らすようになってからも、高文は毎日のように近所の野山を駆けまわり、野鳥や昆虫を捕まえ、ベーゴマ、メンコ、かくれんぼなどをして遊び、山で見つけた野いちご、あけび、びわなどをおやつ代わりに食べ、活発に過ごしていた。

疎外感を忘れさせてくれた“お笑い”

 高文が笑いに目覚めたのは10歳の頃。

 高文には4つ上の兄・正樹と、8つ下の弟・正登がいた。明るく人当たりの良い兄の正樹と、まだ幼い正登は、いつも家族や親戚の関心を集めていた。高文の服はどれも兄のおさがり。新品の服は毎年クリスマスの時期に買ってもらえるジャンパーだけだった。

 兄弟の中で自分だけ名前に「正」の字がついていないことにも悩み、高文はずっと疎外感を抱いていた。それを忘れさせてくれたのが、笑いだった。

 高文と正樹は、毎年夏休みのすべての日を生まれ故郷の和歌山の親戚の家で過ごしていた。

 ある日、高文が有名人のものまねを披露した瞬間、親戚たちは大笑いし、高文を称えた。高文は正樹よりも注目を集められたことが嬉しくて、それから毎日、親戚や家族を笑わせることに力を注ぐようになる。