女優・のん「あまちゃん」からの4年半(前編)

 小さな襟の付いたブラウスと足首にまで届くふわりとしたスカートを着て静かに佇むその人は、凜として背が高く、少し猫背で、黒目勝ちな瞳を持っていた。

 私は一枚のポスターを思い出し、胸を高鳴らせていた。海中からウニを手に現れ、水しぶきとともに髪を靡かせて口を大きな半円に開けた絣(かすり)の袢纏(はんてん)をはおった少女のでっかい笑顔。

 それと同じ顔が、目の前にある。私は思わず、心の中でこう呟いた。ドラマで彼女の母親役を演じた小泉今日子さんの声に似せて。

 お帰りなさい、アキ。

 頭の中では午前8時ちょうどに鳴り響いたビッグバンドが演奏するドラマのオープニング曲が聴こえていた。スカ調の軽快な音楽を聴けば見える。黄色いTシャツに白いシャツとジーンズ姿で、紅いリボンの制服姿で、北の海女と書かれた鉢巻きと海女姿で、大きくジャンプするアキが跳ねては消えるあのシーンが。

 2016年12月。私の前に現れたNHKの連続テレビ小説『あまちゃん』のヒロインは、ドラマの主人公である天野アキのように「えへへ」と小さく笑うと、こう言った。

「はじめまして。のんです」

 透き通るように肌が白く、頬は少し紅潮している。

「あっ、最近はのん社長とも呼ばれています。えっと、のん社長の社長はあだ名ではなく、本当に社長だからです」

「社長になったんですか?」

 こう尋ねた私に、肩をすぼめ首を前に突き出して、上目遣いのまま彼女は言った。

「はい、私、社長です。小さな会社を作りました。『株式会社non(ノン)』っていいます」

 そう言い終えて静かに椅子に座った彼女に私は聞いた。

「アキを演じた女優の能年玲奈さんは、もういないのですか」

 躊躇のない真っ直ぐな声が響いた。

「今の私の芸名はのん。そして、会社ではのん社長です」

 瞬きした目がきらめいていた。

 その日から、およそ一年にわたるのん取材がスタートした。私は何度も彼女に会い、話を聞いた。

本名を名乗らない理由

 2013年4月から9月まで放映された『あまちゃん』で国民的な人気を獲得した女優・能年玲奈。二重の大きな瞳と長くしなやかな手足が印象的な彼女が東北の海で漁をする海女を演じた宮藤官九郎脚本の人情喜劇は、あまちゃんブームを巻き起こしただけでなく、彼女の人生を一気に旋回させた。

 若き海女の天野アキと一体化した彼女の存在感は、共演した薬師丸ひろ子、小泉今日子、宮本信子ら大女優たちにも引けを取らなかった。彼女が演じるアキの懸命さ、おかしみ、愛くるしさは、瞬く間に彼女を国民的女優へと押し上げていった。


菊池寛賞の授賞式にて ©文藝春秋

『あまちゃん』が終わる頃には、いくつものテレビCMに登場し、彼女の顔を見ない日はなくなった。話題の映画『ホットロード』(2014年)『海月姫』(2014年)にも主演し、あまちゃんとは違った役どころで新人賞をいくつも獲得した。

 そんな「能年玲奈」が、ある日「のん」と名乗ることになった。

 なぜ、「のん」になったのか。のん誕生までに何があったのか。2度目に会った時に改めて問うと、彼女はうふふ、と笑って首を振った。

「えーっと、本名を名乗らなければいいんだということに気が付いたからです。だから、本名で活動していた時のことも、前のお仕事の話も、しないことにしているんです」

 明るい表情とその言葉は偽りのものではなく、本心なのだろう。

 あっけらかんとそう言い放つ彼女からは、芸能界の理不尽とも思えるルールにおののき怯える様子は微塵も見受けられない。私は、分かりましたと言って、こう続けた。

「では、取材では能年玲奈さんと過去の仕事の話は聞かないようにしますね」

 彼女は「はぁい」と柔い声で返事をし、また大きく笑って見せた。

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