愛娘はいま3歳8カ月 「凍結卵子」で子どもを産んだ44歳女性のその後

子どものいる温かい家庭への憧れ

 私が知る限り、凍結保存した人にセレブリティなんていません。たとえば10年前に私に日本でも卵子を凍結保存できることを教えてくれた人は、苦学して助産師になった人です。彼女は看護学校の同期生で、彼女は助産師に、私は看護師にと道は分かれましたが、ときどき会っては励まし合う仲でした。彼女はこのとき既に卵子を凍結保存していましたが、その費用の捻出のためにはずいぶん切り詰めた生活をしたそうです。

 私も看護師として、少しでも若いうちに卵子を採取して凍結保存し、将来その卵子を体外受精に使用すれば妊娠する可能性が高くなるということは知っていました。それが日本でできるのであれば私もやっておこうと即、決心したのです。

 私は彼女以上に子どものいる温かい家庭への憧れがありました。そして彼女以上に貧しさを知っていました。

 私は昭和46年、大阪に生まれました。父は私が10歳のときに自宅で吐血して死にました。父はアルコール依存症だったのです。

 31歳で寡婦となった母は、近所の工場で工員として働くだけでなく、ビルの清掃、皿洗いなど、できる仕事はいくつも掛け持ちして私と弟を育て上げました。朝から晩まで働き詰めでしたから、家族揃ってご飯を食べることなどありません。母には申し訳ない気がして言わなかったのですが、私は家族の団らんというものに強く憧れました。

 私たちが住んでいたのは大規模な公営団地です。小さな和室と板の間の2間きりで、色褪せた壁、毛羽立った畳、もう映らないテレビ……私はこのような家の育ちであることを恥じたことはありませんが、恋人になりかけた人に「あの実家は勘弁してほしい」とはっきり言われたことがあります。こんなわが家の窮状を見ても驚かず、父がアル中で死んだことを話しても気にも留めない。そんな優しい人からプロポーズされたことがありましたが、その人のお母さんから「団地に住んでいるくせに」となじられ、結婚には至りませんでした。

 もともと私の夢は幼稚園か保育園の先生になることでした。子どものころから自分より小さい子どもたちの面倒を看ることが好きだったのです。高校生になると幼稚園教諭免許や保母(現在は保育士)資格が取得できる大学を探したのですが、学費や入学金が高いし、ピアノも習わなければいけないと知って断念するしかありませんでした。

 やむなく、一浪して学費が安い公立の公衆衛生専門学校に進みました。浪人したのは勉強のためではなく、昼も夜もアルバイトをして受験費用と当座の学費を貯めるためです。入学後も毎日、講義が終わるとビアホールで夜までウェイトレス。楽ではありませんでしたが、働き詰めだった母のことを思えば弱音なんか吐いていられません。何とか落第もせず、看護師の国家試験にも合格することができました。さらに、希望どおりこども病院への就職も決まりました。


関連記事

おすすめ情報

文春オンラインの他の記事もみる
主要なニュースをもっと見る
社会のニュースをもっと見る
経済のニュースをもっと見る
政治のニュースをもっと見る
国際・科学のニュースをもっと見る
エンタメのニュースをもっと見る
スポーツのニュースをもっと見る
トレンドのニュースをもっと見る
生活術のニュースをもっと見る
地域のニュースをもっと見る

社会 アクセスランキング

ランキングの続きを見る

社会 新着ニュース

新着ニュース一覧へ

総合 アクセスランキング

ランキングの続きを見る

東京 新着ニュース

東京の新着ニュースをもっと見る

東京 コラム・街ネタ

東京のコラム・街ネタをもっと見る

特集

特集一覧を見る 動画一覧を見る

記事検索