「美知子社主の死去に伴い、村山家の持ち株はゼロになります。創業以来、村山家が一貫して大株主であり続けた朝日の歴史を考えれば、大きな曲がり角を迎えたわけです」

「文藝春秋」5月号のインタビューでそう語るのは、元朝日新聞記者の樋田毅氏(68)。朝日新聞の創業者・村山龍平氏の孫で、同社の社主だった村山美知子氏に計7年間にわたり、秘書役として仕えた人物だ。今年3月3日午前、美知子氏は肺炎のため、99歳で亡くなった。樋田氏は「私のことを書き残してね」という、美知子氏との“生前の約束”を守るため、全てを明かすことを決意した――。

赤報隊事件の取材班キャップが社主の秘書役に

 村山龍平氏と上野理一氏が創業した朝日新聞。6割を超える株式を所有してきた村山家、上野家という「社主家」の存在は長い間、朝日の経営陣を悩ませてきた。


朝日新聞東京本社 ©AFLO

 社主家と経営陣の対立が先鋭化したのが、1963年の「村山騒動」だ。美知子氏の父・村山長挙社長(当時)が大株主の権利を行使し、役員人事を強行。反発した経営陣によって、長挙氏は辞任に追い込まれる。以後、経営陣は上野家と良好な関係を保つ反面、村山家とは“冷戦状態”が続いた。村山家の持ち株数をいかに減じさせるかが、経営陣にとっての宿願であった。

 そこに2007年4月、秘書役として送り込まれたのが、阪神支局が何者かに襲撃された赤報隊事件(1987年)で取材班キャップを務めるなど、大阪社会部の事件記者として名を馳せてきた樋田氏である。美知子氏はその時点で、発行済み株式の36.4%を保有するダントツの筆頭株主。経営陣としては、樋田氏に美知子氏を懐柔する役割を期待していたのだろう。樋田自身、「フットワークが軽く、体力もある。株式譲渡などのややこしい懸案事項にも対応できる、と見られたのでしょう」と振り返る。

歴代経営陣の宿願が達成された

 他方で美知子氏の側も、両親から引き継いだ株式を手放すことに迷いつつも、このままでは相続税を巡る問題が解決できないという事情を抱えていた。紆余曲折を経て、2007年の暮れ頃から動き出したのが、当時の秋山耿太郎社長らが提案してきた「株式の3分割案」である。美知子氏が保有する株式の3分の1をテレビ朝日に売却、3分の1を村山家ゆかりの香雪美術館に寄付、残り3分の1を保有し続けるという内容だ。

「悩める美知子社主の背中を押したのは、ペースメーカーの埋め込み手術だったと思います。私にも『入院前にどうしても決めなければ……』と漏らしていました。そして、社主は『決断』を関係者に伝えます。その時の吹っ切れた安堵の表情は今も忘れられません」(樋田氏)

 2008年6月、香雪美術館への株式の寄付を承認する手続きが完了。美知子氏には売却代金など80億円余りの預金や土地が残った一方、妹・富美子さんらの持ち株8・57%を合わせても、村山家の持ち株は20%に届かず、歴代経営陣の宿願が達成されたのである。