1年前の同じ頃、マウンドは水の底に沈んでいた。

 2019年10月の台風19号による浸水後、長い間泥に埋もれたヤクルト二軍本拠地の戸田球場。現在は復旧したものの、水に浸かった影響か、スコアボードの下半分は表示が出ない。スコアとメンバー表示は上半分で共用している。

 その電光掲示板に、「五十嵐」の文字が浮かんだ。

「まだ最後じゃないよね?」

 スタンドからはそんな声も聞かれる。神宮と戸田で引退試合があることは報道されていたものの、この日がそうと事前に告知はなかった。戸田でのイースタン公式戦もまだ3試合を残していた。しかし、ベンチ外の選手が続々集結する姿を見れば、この試合が五十嵐亮太にとって「二軍最後の登板」なのだとはっきり分かってしまった。

予告のなかった最終登板

 2020年10月22日、12時半。イースタン・リーグ公式戦、東京ヤクルトスワローズvs読売ジャイアンツ、プレイボール。

 内野は満席。外野席もほぼ埋まっていた。平日だが、土手にも多くの人の姿がある。普段ユニフォームを着る人の少ない戸田だが、五十嵐のユニフォームを着た人の姿も複数見掛けた。

 先発投手はヤクルトが大卒ルーキー大西広樹。巨人は育成の山川和大。ヤクルトは3回に古賀優大のソロホームランで1点を先制したが、4回にエラーも絡んで2点を失う。

  14時頃、球場入りした五十嵐は、いつもと変わらずゆっくりと歩いてきた。 ほどなくブルペンに入り、ブルペン席の目の前で投球練習を始める。ゆったりとした大きなフォーム。声を出せない観客が、カメラやスマホを向ける。ベンチの声と観客の拍手が急展開を告げた。

 五十嵐は恐らく試合展開によらず投げる予定にはなっていただろうが、長岡秀樹の同点タイムリーの後、古賀が勝ち越しタイムリーを放ってヤクルトが3-2と逆転した。絶好の花道が出来たのだ。

 7回表。ブルペンスタッフ、コーチと投手陣に見送られ、観客の拍手が背中を押す。普段戸田では流れることのない登場曲が流れた。「パイレーツ・オブ・カリビアン」の「Skull and crossbones」。神宮で慣れ親しんだ曲は、配信を通して見ているファンの耳にも届いただろう。


池山隆寛二軍監督(右から2人目)からボールを渡される五十嵐亮太 ©mom0ys42

 かつて選手として共に戦った池山隆寛二軍監督が、五十嵐に直接ボールを渡す。監督が、コーチ陣が、選手が、ファンが、静かに見守るマウンド上の姿。

 ひとり、近藤一樹だけが、次の回の準備をすべくブルペンで投げ始めた。五十嵐が投げ、近藤がブルペンで準備をする。神宮さながらだ。

 五十嵐はテンポよくモタ、戸根を打ち取り、加藤脩を空振り三振に仕留める。その瞬間、抑えきれない歓声と拍手が湧き起こった。計8球。ストレートの最速は145km/hを計測したという。引退の記者会見で「引退を撤回するぐらいの勢いで」投げると言ったその言葉の通りに。「まだ出来るよ」「辞めないで」聞こえた声援は、見ている皆の気持ちだっただろう。

ゴールデンルーキーからの花束贈呈

 登板を終えた五十嵐は、すっきりした顔でブルペンに戻ってきた。ブルペンスタッフに労われ、拍手をするスタンドに会釈をくれる。

 その後、練習着に着替えてベンチに向かおうとしたのだが、ブルペンスタッフに制止され服装を咎められた。「ユニフォームを着ないと」。試合後に花束贈呈のあることを言われ、「え? やるの? 聞いてないよ」と意外そうな顔をする。ファンには簡単に想像がついたことも、当の本人にはそうでなかったらしい。

 8回を近藤、9回は中澤雅人。ベテランの継投は9回途中で風張蓮のリリーフを仰いだけれども、試合は4-2でヤクルトが勝った。勝利のハイタッチに加わる五十嵐に、藤井亮太がウィニングボールを手渡す。