[プレイバックあの人あの時]増田護記者

 記者が思い出の出来事を振り返る「プレイバック あの人、あの時」。今回は増田護記者(62)が1987年8月9日、夏休みの日曜日に起きた奇跡を振り返る。ナゴヤ球場での中日ー巨人。高校を出てわずか半年足らずの中日・近藤真一(のち真市に改名=現スカウト)がデビュー戦でノーヒットノーランを達成した。先発が極秘の時代、舞台裏では何が起きていたのか。

 午前10時すぎ、1本の電話で起こされた。声の主は近藤の母。「きょう、息子が先発するんです。チケット何とかなりませんか」。一瞬にして目が覚めた。

 混乱する頭でナゴヤ球場に急いだ。当初の先発予想は江本晃一だったが、中日は死闘の末にドローとなった前夜の巨人戦でその左腕をつぎこんでいた。とはいえ前日に合流したばかりのルーキーの起用などあるのか。

 中日のロッカールームでも先発がだれか話題になっていた。極秘情報とはいえ普通は雰囲気で分かるのに気配がない。巨人ベンチでは王貞治監督が「近藤はないね。こんな大試合にルーキーを使って、もし打たれたら…。冒険できんだろう」と担当記者に話した。それが伝わってくると就任1年目の星野仙一監督は「あるかもしれんぞ」と笑った。

 先発は前夜遅く球場の浴室で決まった。目撃者はグラウンドキーパーの永田向平。仕事を終えて汗を流そうとしたところ、星野監督と池田英俊投手コーチがまだ湯船にいた。「失礼しました」と出ようとすると、「向平ちゃん、ええよ」と遮られた。口火を切ったのは池田コーチで「あした投げるのがいません」。星野監督は間髪入れず「おるやろ、若いのが」。永田がこの秘話を明かすのは10年以上も後のことである。

 実際、近藤に先発が告げられたのは試合当日の午後4時すぎ。すぐ捕手の大石とのミーティングとなった。「球種は?」。速球、カーブ、それに高校時代に練習したが制球が定まらず封印したフォーク。「よし、フォークは落ちなくていいチェンジアップがわりに」。かく乱するため首を振ることも確認された。

 午後6時20分の試合開始直前、キャッチボールを始めた近藤は不思議な感覚にとらわれた。テークバックしようとすると体が左後方に引っ張られる。後の本人の言葉を借りれば野茂英雄のトルネードに近いイメージで、体にためができた。だが、マウンドに上がると緊張で膝はがくがく。初球は144キロの速球が高めに抜けた。それに駒田が手を出してファウル。す〜っと力が抜けた。

 打線は1回裏、落合の2ランなどで3点先取。落合は5回にも本塁打を放ち6―0。ベンチには奇跡の達成に欠かせない男がいた。代打の切り札・石井昭男で、面倒見のいい彼は初回から「あと8回だ」「あと7回だ」、そして5回が終わると「まだヒットを打たれていないから頑張れ」と声をかけ続けた。近藤は言う。「それを聞いて、よし狙おうと思いました」

 最大のピンチは7回だった。失策で走者を出し、1死一塁で原。カーブばかりで1ボール2ストライクとなったところで大石の要求は内角への速球。近藤は首を4度振った。「体が疲れきって、まっすぐは通用しないと思ったんです」。打ち合わせ通りではないと気づいた大石はカーブのサインを出し、三振に仕留めた。

 9回になるとベンチは「狙え」「狙え」の大合唱。最後の篠塚がカーブを見逃し、ドラマは完成した。引退後、近藤は言った。「体が引っ張られる、あの不思議な感覚は戻らなかった。意識してもだめ。ビデオを見てもだめ。ノーヒットノーランはあの日、あの時でなければできませんでした」

 近藤の母は、なぜ先発が分かったのか。CBCテレビ「サンデードラゴンズ」(当時は午前10時)の久野誠アナウンサーが「近藤の先発があるかも」と予想を口にしたのを聞いて確信したそうだ。ではチケットは?完売だったが、木俣達彦総合コーチがたまたま持っていた2枚の招待券をいただくことでミッションを果たせた。それらも小さな奇跡だった。=敬称略=

▼増田護(ますだ・まもる) 1957(昭和32)年11月20日、愛知県一宮市生まれ。早大卒。84年の入社後は一般スポーツ、大相撲を担当し、星野仙一、高木守道、山田久志監督時代の中日を取材。このほか山本浩二監督時代の広島、夏冬4度の五輪を取材した。月刊ドラゴンズ編集長などを経て現在編集委員。中日スポーツのホームページでコラム「人生流し打ち」を連載中。