1973年のタルガフローリオを6位でフィニッシュした911 RSRは、興味深い謎を残して姿を消した。そのストーリーに心奪われたマイク・ムーアが6年の歳月をかけて忠実に再現したのが、このRSRリクリエーションだ。細部にまでこだわり抜いた執念の日々を追った。

タルガフローリオはモータースポーツファンの想像力を掻き立ててやまないイベントだ。初開催は1906年で、伝説のル・マンもミッレミリアもまだない時代は耐久レースの頂点に君臨。地中海に浮かぶシチリア島を舞台に、450km近い苛酷なルートを3周で争われた。第1回の優勝者はイターラを駆ったアレッサンドロ・カーニョで、その平均速度は50km/hにも満たなかった。
 
その後も第一次世界大戦が勃発する1914年まで毎年開催され、1919年に復活して、再び戦争で中断される1940年まで続いた。世界選手権に組み込まれていなかった当時は、地元イタリアのアルファロメオやフィアット、ランチア、マセラティなどが活躍。1920年代はフランスのブガッティが席巻した。
 
再開した1948年のタルガフローリオは、1080kmに及ぶ長いコースを1周する形式だった。1951年に複数周で争われる形式に戻ったものの、レースディスタンスは"たった"576kmだった。1954年までは地元からの参加が中心だったが、1955年にFIAが世界スポーツカー選手権のひとつになると、タルガフローリオの重要性は飛躍的に増し、ワークスチームにとっても避けて通れないイベントとなった。
 
1955年に勝利したのはイギリスのスターリング・モス/ピーター・コリンズのメルセデス・ベンツ300SLRだった。そして翌年、ウンベルト・マリオーリ/フシュケ・フォン・ハンシュタインが550スパイダーでポルシェにタルガでの初勝利をもたらした。その後もポルシェは1970年までにタルガフローリオで10 回もの勝利を挙げた。エルフォード、シフェール、シュトメレン、レッドマン、バルトなど、有名なワークスドライバーはいずれもタルガで実績を残している。しかし、1971年と72年は2年連続で勝利を逃し、迎えたのが1973年だった。
 
この年のタルガはポルシェ最高の勝利に数えられている。3月13日に開催されたイベントは"真の"タルガとしては最後のものとなった。これを限りに世界選手権の一戦としての地位を失い、ローカルイベントに戻ったからだ。その後、1977年に死亡事故が起き、警察の指示で4周目に中止されると、公道レースとしてのタルガフローリオは完全に幕を閉じた。


 
1973年に話を戻そう。この年、ポルシェは15台も出走し、うち4 台がマルティーニ・レーシングのRSRだった。シャシーナンバー360 0588( ”R6”としても知られる)はカーナンバー8を付け、ヘルベルト・ミューラー/ハイス・ファン・レネップがドライブ。360 0020(R2)はカーナンバー9でキニューネン/ハルディ組が、360 0974( R8)はギュンター・シュテクケーニッヒとジャンフランコ・プッチがドライブし、カーナンバー107を付けた。4台目のエントリーはいわゆるTカーで(360 0002と考えられている)、レースカーの消耗を防ぐため、本番前に行われる2日間の練習走行でのみ使用する予定だった。カーナンバーは107T。それ以前は広報車やテストカーとしても使われ、カーナンバー3を付けた写真が何枚も残っている。


 
ポルシェではすべてが順調に運んでいるようだった。とはいえRSRはよくてクラス優勝だろうというのが大方の予想だった。当時のタルガはフェラーリ312PやアルファロメオT33といった純粋なレーシングカーの独壇場となっていたからだ。ポルシェも908を投入し、ハルディ/シュヌヴィエール組がドライブしていた。この年は125台がエントリーし、うち80台が予選を通過、スタートラインについたのは76台だった。
 
予選1位はメルツァリオ/ヴァカレラ組のフェラーリ312Pで、アルファT33が2台と、もう1台のフェラーリ312Pが続き、ミューラー/ファン・レネップ組のRSRは5番手に付けた。シュテクケーニッヒ/プッチ組の107号車は予選8番手、キニューネン/ハルディ組の19号車は15番手だった。

本命が次々と姿を消していった決勝では・・・<次回へ続く>