「蔦文也外伝33」甲子園には蔦がからんどる

 【蔦文也外伝33】

 2001年4月、蔦は池田高校グラウンドの三塁側にあるフェンスの脇にいた。長男、泰見が運転する車の助手席でナインを見つめていた。ほんの15分。練習試合中の選手は気づいていただろうか。

 亡くなる数日前のことだ。入院先の三好病院から訪れた、最後のグラウンドだった。勝てないいらだちをぶつけ、ささやかな喜びを見いだした。光が当たるまで、ここが人生の主舞台だった。

 2度のがんの手術と骨折で療養生活を続けていた蔦は、77歳の時に今度は肺がんと診断された。家族は腹をくくっていた。病名は本人に告知しなかった。

 最期の時がやってくる。4月28日、蔦は夕食のおもゆを平らげ、追加のうどんも食べるほど元気だった。しかし、数時間後に容体が急変。午後8時29分、家族が見守る中で77年の人生の幕を閉じた。

 通夜と告別式は蔦家で行われた。重厚な旧家の玄関には7つの焼香台が置かれた。朝から雨が降り続く中、さわやかイレブンや水野雄仁ら連覇のメンバー、高校野球関係者が次々と駆けつけた。告別式に訪れたのは約900人。「うだつの町並み」は人で埋まった。

 多くの指導者が蔦の影響を受けた。中でも特に心酔していたのが前田三夫(帝京監督)だった。前田は春季大会の期間中にもかかわらず「個人としてお別れしたい」と600キロ離れた東京から告別式に参列した。その背中を追って事務職員から教員を目指した。5年かけてようやく教壇に立ったところだった。

 蔦は聖人君子でも完全無欠でもない。酒におぼれる弱さもあった。不器用な生き様がなぜこれほど人をひきつけたのか。教え子で、自身も監督として池田を率いた岡田康志は言う。「先生は日本一野球が好きな人。そこは絶対にかなわない」

 まだ勝てなかったころ、練習試合で遠征に出掛けると、蔦はダブルヘッダーが終わっても帰らなかった。電車の時刻まであと1時間あれば、「もう30分でいいけん、やらせてくれ」と相手を困らせた。強くなりたい。その一心で、みっともないほど自分をさらけ出した。痛々しいほど純粋だった。そして、奇跡のようなチームをつくりあげた。

 蔦を乗せた霊きゅう車は、通い慣れた道を通って学校の正門前へついた。フェンスの向こうのグラウンド。いつもは金属バットの快音がこだまする山あいに別れのクラクションが響いた。

 蔦はかつて「甲子園は池田の球場ぞ。蔦がからんどる」と言った。ひつぎには甲子園の土と蔦の葉。最後まで筋肉だけは衰えなかったその体に、ユニホームが着せられた。

 戒名「蔦観徹院誠文球道大居士」。向こうでも、好きなだけやりなはれ。妻のキミ子はバットとボールを入れて、そっとふたを閉じた。(おわり)=敬称略

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