【辰吉三代物語18】

 1987年2月、丈一郎は「あしたのジョー」と同じバンタム級でアマデビュー。左フック一発で1回KO勝ちを収めた。ジム入門の翌年、本格的にボクシングを始めてまだ10カ月だった。

 その年の10月に全日本社会人選手権に出場。4戦してすべてKO勝ちを収め、17歳4カ月で大会を制した。相手には国体2位もいた。社会人、ボクシング部に所属していない大学生、高校生などアマのトップ選手が居並ぶ大会をわずか17歳の少年が制したことは話題となった。

 直後の沖縄国体にも大阪チームのジュニアとして出場。チームは準決勝で敗れたが、ここでも4戦4勝4KOと破竹の勢いだった。

 大阪帝拳の先代会長、吉井清には青写真があった。丈一郎を翌1988年に開催されるソウル五輪代表にし、メダルを狙わせたかったのだ。六車はWBAバンタム級王座決定戦に勝利し、大阪帝拳には2人目の世界王者が誕生した。関西ボクシング界の重鎮にとってアマで金メダリストをつくることはもう一つの悲願だった。87年11月、五輪代表選考会となる全日本アマチュア選手権へ丈一郎をエントリーさせた。

 しかし、当の本人は違和感を覚え始めていた。粂二に「出世するけん」と児島を出て1年。早く金を稼いで親孝行がしたかった。全日本アマの初戦、大学生との試合は3回をほとんど棒立ちで判定になった。ここまで15戦全KO勝ち。KOの少ないアマでは異例の快進撃を続けていたが、初めて黒星がついた。

 当時は体調不良や膝の故障が原因だとされたが「勝ったらオリンピックに行かなあかんかった」という本音はある。プロになりたい。その一念。アマのリングで戦う気力はなかった。

 1968年メキシコ五輪の銅メダルを最後に日本のアマボクシングは低迷していた。先代会長は「金を稼ぎたい」というまな弟子に「借金をさせてやる」とまで言ってアマ続行を強いた。しかし、丈一郎はかたくなだった。最後は「ジムをやめる」と言って飛び出した。

 会長を引き継いだ次男の寛は振り返る。「おやじは辰吉にいつも『五輪でメダルを獲ってからプロや』と言っていたが、本人は『すぐプロになりたい』と聞かなかった。その繰り返しだった。おやじは晩年までずっと『辰吉を五輪に出したかった』と悔やんでいた」

 冬が近づいていた。ボクシングだけでなく仕事も家も失った。居場所は大阪城公園や淀川の河川敷。丈一郎が自ら「浮浪者だった」と振り返る時期が始まった。しかし、どん底のこの頃に人生を左右する出会いがあった。=敬称略=